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したあの日のことをまだ生まれていなかった俺が知るはずもない。でも当時の 人々の熱狂は今でも何かの機会でちょくちょく目にする。それをきっかけにして 宇宙に関心を持った者は少なくないはずだ。俺の場合はそれともちょっと違う。 古いSF映画じみた白黒の中継をリアルタイムで見ていた若かりし頃の祖父の 興奮ときたら祖母が何か悪い薬でもやったんじゃないかというほどだったらしく、 以来熱烈な天文マニアとなった祖父は両親が仕事で忙しかったこともあって 幼い俺に天文学の本ばかりを読み聞かせ、未来の天文マニアを生み出すべく 育てたあげた。俺がシンデレラや白雪姫を知ったのは宇宙の成り立ちを覚えた かなり後のことで、祖父の目論見はまんまと成功したようだ。そのせいで周囲 から浮いていた俺と仲良くしてくれたのはお隣に住む同い年の菊だけだった。 菊は俺のマシンガンみたいな話をちっとも嫌な顔しないで聞いてくれたし、宇宙 飛行士になるんだって途方もない夢を一度も笑ったりしなかった。クリスマスに 買ってもらった念願の望遠鏡は土星の輪っかまで見えるなんて大層なものじゃ なかったけれど、月のクレーターぐらいはよく見える。俺は週末ごとに菊を近所の 丘に連れ出して月や星を見せるのが楽しみだった。田舎の夜空は人工の光に 邪魔されることもない天然のプラネタリウムだ。そして俺は決まってこう言った。 『いつか君にあのお月様をプレゼントするよ!』そのいつかは割りと早くにやって 来て、月の土地の権利書を用意してくれたのは菊が先だったけど俺は星条旗の 隣に俺の旗を立てて、本物の月を丸ごと菊にプレゼントしたいと思っていたんだ。 ひとつの毛布に包まって代わる代わる望遠鏡を覗き込む菊の黒い瞳は月のない 夜みたいで、そこに遠い街の明かりが映りこむとまるで星空みたいにキラキラ 輝いてとてもきれいだった。俺が菊のことを好きになるのは砕けた星の欠片が 惑星の引力で墜ちるみたいにごく当たり前なことだった。宇宙飛行士目指して 本格的に勉強するため母国に帰る決意をしたとき、ちゃんと伝えなきゃと悩んだ けど結局は告白出来なかった。こんなに長く一緒にいて今更好きなんて言うのは 恥ずかしかったし、その頃には宇宙飛行士になるのは宝くじに当たるよりもずっと ずっと難しいってわかっていたから、大見得切っといてやっぱり無理だったよって 再会するのだけは嫌だったから、俺は何にも説明しないで黙って空港を発った。 意気地なしって空想の菊の声がいつまでも耳の奥から離れなかった。それが チクチク棘みたいに心に刺さって、だからこそどうしても宇宙飛行士にならないと いけないって頑張れたんだと思う。航空宇宙学で博士号を取得してから空軍に 入ってパイロットの道へ。俺なりに考え、努力した。あれから菊に連絡を取った ことはなかった。菊は俺のことなんか嫌いになったかもしれないし、とっくに結婚 してるかもしれないし、俺が夢中で話した宇宙のこともきれいさっぱり忘れたかも しれない。それに俺は忙しかった。でも月を見るたび思い出した。俺が菊に約束 したこと、月をプレゼントするって言ったこと、俺がまだ菊を好きなこと。軍に入った からには当然危険な任務もあるし、空は万事安全ってわけでもなくて、何度か 命の危険を感じたこともあるけど、そのとき頭を占めるのはバカみたいにいつも 菊のことだけ。俺が死んだら家族には連絡がいくけど、菊は知らないままなの かなとか呆れるぐらいどうでもいいことばかり。俺は死ぬまで天文バカのまんま だろうなって思ってたのに、俺は何のために宇宙飛行士になりたいんだっけ? って自分でもため息が出そうだった。空軍でそれなりの地位を手に入れてやっと NASAからお呼びがきたときは年甲斐もなく踊り出したいぐらい嬉しかったのに、 それを分かち合いたい人の不在に同じだけ落ち込んだ。何も言わなかった俺が 悪いのに、俺はただのバカだ。「ジョーンズ少佐は結婚しないんですか?」って 部下に聞かれて俺が答えるのは毎度同じ。「ああ、俺は月と結婚するからね」 なんて理想的な天文バカ、笑えるだろう?再び月に挨拶しに行ってやろうという 計画は今のところない。俺が生きているうちにはまたやるかもしれないけど、 俺が現役かどうかは保証がない。俺が生まれ育った地球を離れるのはほんの ちょっとの期間で、夏のバカンスよりも短い。宇宙人とひと夏の恋をする暇もない のが残念だと笑う。夜の帳みたいな髪の毛と、宇宙の果てみたいな真っ黒の 瞳と、月の光みたいに優しい笑顔の宇宙人がいたらの話だけれど。俺が地球を 発つその日、近しい家族はみんなケープカナベラルに大集合だ。みんな明るく 振る舞っているけど笑顔の奥に不安を押し込めている。それもそうだ、俺だって チャレンジャー号、コロンビア号の悲劇は毎日毎日思い浮かべる。だからラスト チャンスかもしれないって勇気を振り絞って連絡した。もちろん無視されることも 覚悟の上で。なのに菊が古い記憶とあまりにも変わってない姿で現れるから、 俺は思いっきり笑ってしまった。菊は失礼ですねって俺の頬をつねって、それから ちゃんと帰って来てくださいね絶対ですよ約束してくださいねお願いですからって 俺の手を、昔は何も躊躇せずつないでた俺の手をぎゅっと、本当に強くぎゅっと 握って俺も握り返したら、もうこのまま離したくないって宇宙なんか行かなくて いいからずっとこのまま触れてたいって時間が来るまでろくに会話もしないまま ただ手をつないで祈るように過ごした。結果として打ち上げは無事成功し、俺は 青い青い故郷を遠く見た。その感動はとても形容しがたい。世界中の詩人を呼び 寄せて存在し得る限りの美しい言葉をいくつ並べても全然足りない。そんな俺が 真っ先に伝えたかったのは神様や家族への感謝や科学技術の進歩に対する 賞賛や、管制官に気の利いたジョークなんかじゃなくて、不測の事態に備えて センターで待機しているだろう菊に向けた実に私的な告白だった。人類史上、 地球の外から告白した男が他にいるだろうか?ひょっとしたらギネスに載るかも しれない。答えは地上に帰るまで聞かない。だから生きて帰りたいとそればかり 考えて任務を全うした。幸運なことに帰還も成功のうちに終わった。久しぶりの 重力をずっしり感じながら映画のエンディングのように目を潤ませて出迎えた菊を 抱きしめて再度告白する。ずっとずっとこの瞬間を待っていた。これまでの俺の 人生はきっとこの瞬間のためにあった。「あのお月様はあげられなかったけど 俺の見てきた宇宙で唯一の青い宝石を君に捧げるよ」菊はにっこり優しく笑って 「それはあなたの瞳ほど美しいものなんですか?」と俺をまっすぐに見上げた。 参った、考えに考え抜いた会心の台詞だったのに俺のほうがやられた。顔も耳も 赤くなって心拍数の上昇が止められない。昔は大事なものは全部宇宙にあると 思っていた。でも今は腕の中にある。俺はイエスもノーもどうでもよくなって人目も 憚らずキスをした。さあギネスに恥ずかしい申請でもしようか。俺たちはたぶん 世界で一番遠回りをしたカップルだよ。 |