上等のダークスーツに上質の小物類、真昼の町を歩くときには欠かさない堅気
離れした目を隠すサングラスも今は胸ポケットだ。その下には安全装置を外した
今すぐ発砲出来る銃が収まっているが、少しでも不審な動きを見せれば布越しの
背中に密着したサイレンサー付の銃口のほうが先に火を噴いて深刻なダメージを
与えるのは間違いない。よってロヴィーノは不本意ながらも指示に従って両手を
ポケットに突っ込んだまま黙々と歩く。向かうは何百年も前から続く古い住宅街、
入り組んだ路地の奥の奥、人目のつかない場所。どこのファミリーが送り込んだ
刺客か、振り返ることも許されなかったロヴィーノには知る術もない。ヴァルガス
ファミリーのドンともあろうお方が護衛もなしにお散歩だなんて、油断なさいました
ねえと男は嫌味な口調と粘着質な笑い声で嫌悪感を煽る。ロヴィーノはあっそと
どうでもいいと嘆息するばかりだ。俺だって好きでマフィアのドンなんかやってる
わけじゃない、物心ついた頃には弟と二人で地方の孤児院にいて、ある日突然
身内が迎えに来たと聞いて素直に喜んだのも束の間、家業を嫌った両親は己の
運命から逃れるように各地を転々とした末に事故で死に、そもそもそれで俺たち
兄弟は孤児院にいたわけで、長らく探していた孫にやっとのことで対面叶って、
そりゃあもうしつこいぐらい可愛がってくれた祖父が亡き後は俺か弟が継ぐしか
なくて、ああそうだよ、誰が好き好んでマフィアのドンなんかやるもんかよ畜生、
そんな風にロヴィーノは二十年ちょっとの人生を振り返る。死を覚悟した走馬灯
なんて縁起の悪いものじゃないがこんな状況ではネガティブになるのも仕方が
ない。すでに裏道に入ってから五分は歩いている。目的地に着いたら着いたで
ズドンとやられるか、不利な取引を押しつけられるか、どうせろくなことになりゃ
しないのだから多少感傷に浸るぐらいは勘弁してほしい。やがて四方を石壁に
囲まれた狭い行き止まりに辿り着く。小さな四角に切り取られた青空から差す
陽光は充分ではない。お誂え向きに薄暗い空間でようやくロヴィーノは壁を背に
刺客と向き合うことを許される。その男の顔を思い出すにはやや時間を要した。
最近仕事で対立している厄介なファミリーの中に確かそんな顔がいた気がする。
しかし顔を見せたということは生きて帰すつもりはないのだ。額に冷たい銃口が
今度は直に当たる。使用して間もないのかうっすら硝煙の臭いが香る。かちりと
撃鉄を起こした男はいやはや運がお悪かったですねえと煙草のヤニで黄ばんだ
歯を見せつけて男は笑った。
「…その前に、ひとつ言っておきてえんだけど」
 ロヴィーノが心底疲れたような声を漏らす。男は辞世の句でも?と殊更楽しげに
ケラケラと耳に障る笑い方をした。ああまったく嫌になるとしみじみ思うのだ。若造
だからといって来る日も来る日も程度の低い刺客ばかり。本気で消したいんなら
最初から全力でかかるべきだ。人の尊厳を土足で踏みにじる行為も血を血で洗う
抗争も日常茶飯事である家業を嫌った両親にロヴィーノは似ていないようだった。
あくどい金儲けや意味のない殺傷を積極的に楽しむつもりは微塵もないが、降り
かかる火の粉は何倍にして返さないと気が済まない。
「俺、本物じゃねえんだけど」
 途端、刺客が目を見開いた。足音もなく現れた何者かが背後からこめかみに
冷たく硬いものを撃鉄の音と共に押し当てたのだ。おそるおそる視線をずらすと
標的と同じ顔をした男が口元を弧に歪めて立っている。顔を似せた男を影武者に
仕立て上げるのはよくある話だ。もしここで影武者を消したとしても大した報酬は
期待出来ないどころか下手をすると消されるのは自分だ。だったら少しの痛手を
負ってでも本物を始末しなければ。刺客は銃を向ける相手を変えようとした。だが
一足早く銃声を抑えられたパシュと軽い音がして刺客のこめかみではなく、まず
太腿を弾丸が貫いた。無様な悲鳴をあげて刺客は石畳にごろごろ転がる。そこに
狙いを定めてさらに二発目、三発目と銃弾が走った。獣の雄叫びが石壁に反響
して不快だった。血溜まり広がっても止まない音の主を見てまた悪い癖が出たと
ロヴィーノは再びため息をつく。その男は身内にちょっかいをかける不届きな輩を
おもちゃにするのがひどく好きなのだ。
「おいフェリシアーノ、騒がれると面倒だぞ」
 念のために忠告しておくとフェリシアーノはわかってるって兄ちゃんと無邪気な
笑顔で答えたが、本当にわかっているかどうか疑わしい。迷惑な銃口から解放
されたのはよかった、とはいえ、この場に出てきたのがフェリシアーノだったのは
刺客にとってもロヴィーノにとっても不運と言える。腕は認めざるを得ないがその
前が問題だ。ああそうだとロヴィーノは思い出す。汚い血を垂れ流している風穴を
靴底で執拗に痛めつけているフェリシアーノはさておいて、嘘はきちんと撤回して
おかなくては。
「悪ィな、俺が本物なのは間違ってなかったよオッサン。でも残念だけど、アンタ
簡単には地獄に行かせてもらえねーよ」
 最早聞こえていないだろう餞別の言葉を残し、始末は弟に任せてロヴィーノは
足早に路地裏から出て行く。腕時計に目を落とすと約束から十分も過ぎていた。
四時きっかりに迎えに行くはずだったのに、あの汚らしい低脳のせいですっかり
遅れてしまった。自分も一発ぐらい撃っておけばよかったと思う。息せき切らして
託児所に到着すると他はみんな迎えが来て帰ってしまったらしい無人の教室で
もう子供じゃないからひとりで帰れると拗ねていたのを今日こそ時間通り迎えに
行くからと無理やり説得したのに約束を破ったことでますます機嫌を損ねている
菊はホラ、帰るからなとロヴィーノの呼びかけも無視して絵を描いていた。頬が
膨らんでリスみたいになっている。
「急に仕事が入ったんだよ。悪かったって。菓子でも何でも買ってやるから機嫌
直せって、な?」
 古参で名を馳せるヴァルガスファミリーのドンたるロヴィーノがこれほど下手に
出るのは菊ぐらいだろう。こんな幼い子供を引き取ってどうするんだと近しい身内
からも散々非難された。けれどマフィアの抗争に巻き込まれて目の前で両親を
失い、癒えない心の傷を負ってなお自分を受け入れてくれた菊に特別なものを
感じてしまったのだ。憐憫であり共感であり罪悪感でありそのどれでもないもの。
まだ裏世界の汚濁を知らない曇りのない瞳を覗き込むと複雑な思いに駆られる。
同じ色に染めてしまいたくはない、でも手元から離したくない矛盾。このままでは
きっと菊は。
「…明日はちゃんとお迎えに来てくれるんですか?」
 無数の血に汚れた手を、菊は承知でためらうことなくまっさらな手で触れてくる
からロヴィーノは潤んだ瞳でじっと見上げる幼い体を抱きしめずにはいられない。
菊のそれは雛鳥が初めて見たものを親鳥と思い込む刷り込みに似ている。菊の
両親を殺した犯人は結局捕まらなかった。マフィアと癒着した警察はうやむやの
うちに捜査を打ち切ったのだ。引き取り手も現れない菊は孤児院に送られるしか
なかった。偶然兄弟で世話になった古巣を訪ねたときの出来事は忘れられない。
あの頃の菊は言葉にしない方法で己の罪を責め立てているように感じた。いくら
同じ悪党といっても悲しむ家族がいないとは限らない。中には菊ぐらいの子供が
いて、何も知らず理不尽に殺されたと恨んでいる者もいるかもしれない。そんな
子供が目の前に現れて『どうしてパパやマンマを殺したの?』と詰め寄られたら
どう答えればいいか。ロヴィーノは菊の両親の死に関与していないが、もし何故
両親は殺されなければなかったのかと問われても正しい答えは見当たらない。
祖父の存在があったからといって両親が疎んだマフィアを選んだ理由を己の中に
探そうとするとなかなか寝つけない夜がある。かつて菊が夜毎襲い来る悪夢に
うなされていたように。
「ああ、約束する。ずっと一緒にいてやるから」
 柔らかな子供の肌に触れていると、そこから菊を赤く黒く穢しているような気が
する。後悔が胸の真ん中に大きな空洞を開けると同時に、ひどく心を満たすのは
何故だろう。菊はきっと同じ道を選んでしまう。そんな予感がしてならない。そして
心のどこかにそれを待ち望む自分がいる。いつかこの世の汚濁に染まってしまう
なら、いっそこの手で染めてしまうのがいいのか。だけどそれが正解ならどうして
こんなに苦しまなければならないのか、ロヴィーノはまだ割り切れないでいる。





ブラウザバックでおねがいします。