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先までぴんと伸びた右手の下に可愛らしい三つ編みを見つけたとき、不覚にも脳裏をよぎったのは 同じ夢を抱きながらすでに道の別たれた幼馴染だった。ムラっ気のあるユーリと比べて僕は昔から 何事もそつなくこなせるたちで、大抵のことは大きな挫折もなく乗り越えてきた。けれどひとつだけ、 なかなか思うようにいかなくてずいぶん悩んだことがある。それが三つ編みだ。 下町はひとつの大きな家族みたいなもので、親のない子供や親が働きに出ている子供も皆一緒 くたに"下町の子供"として温かく育まれていくなか、大人が忙しい昼間は年長者がより小さい子供 たちの面倒を見る、誰に頼まれなくてもそういう構図がごく自然な流れとしてあった。騎士団に所属 する父と病がちな母を持つ僕も当然のようにその流れに組み込まれて育った。あれは僕がいくつの ときだったか、たぶん四つか五つ、まだ物事をよく知らない頃だ。当時の僕からするとほとんど大人 と変わらないお姉さんが僕らよりも年下の女の子の髪に櫛を通し、すいすいと魔法のように結って いるのを見て、僕はもうすぐ背中に届くユーリの長い黒髪を結ってみたいと思ったのだ。口を閉じて じっとしていればそこそこ可愛いのに、下町の子供で一番やんちゃで生意気なことばかり言うユーリ でもあんな風にしたら少しは可愛くなるんじゃないかと幼いなりに考えたのかもしれないし、ほんの 思いつきで実は何も考えてなかったかもしれない。何しろ大昔のことでどうして髪を結ってみようと 思ったのか、実際のところ定かではなかった。確かなのはそのとき僕はユーリを女の子だと思って いた、ということ。 いったい何が原因であんな勘違いをしたんだろう、今思い出しても顔が赤くなりそうだ。男の子が 髪を長くしちゃいけない決まりはないし、女の子がみんな長いわけでもないのに。伸ばすきっかけは 本人も覚えてないらしいし、今更深く考えても仕方がない。しかし、ユーリの真っ黒な髪はさらさらの つやつやで、もう少し物事がわかる年頃になってくると売ったらお金になるかなあ?と悲しいことを 言い出して、どうにか思い留まらせようと泣き落としに賭ける程度には好きだった。僕も僕で眩しい くらいの金髪が羨ましいと褒めそやされたものだけど、髪質はごわごわで硬いし、身近に同じ色を した父親という存在があったのでさして珍しいと意識したことはなく、ユーリの黒髪のほうがよほど 特別で何物にも換えがたいものと思っていた。下町では僕の他にもそんな思いを共有する人間が 大勢いたのではないだろうか。その証拠にユーリが邪魔だから切ってくれといくら頼んでも、床屋の 女将さんも親代わりだったハンクスさんも頑として聞き入れなかった。一度だけ、断ち切りばさみを 持ち出してこっそり切ろうとしていたことがあったけれどすぐに見つかってこっぴどく叱られていた。 小枝のような子供の細い指ぐらい易々とちょん切ってしまえる大きなはさみを扱うことへの説教が 主であったとしても、母親譲りの美しい黒髪、つまりユーリの肉親が唯一遺したそれに対する優しい 心遣いがあったのだと、大人になった今ならそう思う。 結論から言って、僕の目論見は失敗に終わった。髪を三つの束に分けて、交互に編む。たかが 三つ編みと侮ってはいけない。始点の位置、髪束の配分、力加減、きれいな黒髪に見合った 完璧な 仕上がりを目指したいのに肝心のユーリが待ってくれる時間なんてごくわずかだ。稀に満足できる 三つ編みが完成しても、走ったり飛んだり棒っきれを振り回しているあいだにボサボサになってもう おしまい。努力の結晶は数時間すら持たない。第一、髪型なんてユーリには何の効果もないのだ。 よしんば外見の変化が内面に対し何らかの影響力があるとして、髪に花冠、真っ白なふわふわの ワンピース、揃いの華奢な靴等を強制的に装備させたところであの性格がどうにかなるかというと 甚だ疑問だ。どんな格好だろうと、魔物が出たとか騎士団の横暴を聞きつけたらしゃしゃり出るに 決まっている。そして何より、ユーリの性別は男だ。要するに、僕がやろうとしていたことは最初から 大間違いというか的外れというか、とにかく無駄以外の何物でもなかったのだった。 そんなことを思い出したものだからきっと僕は苦虫を噛み潰したみたいな顔をしていたんだろう、 初対面のソディアには変に気を遣わせてしまった。それもあってこの思い出は二度と思い出したく ない類の、いわゆる僕の黒歴史に当たる人生の汚点だけれど、風呂あがりのままらしい半乾きの 頭で呑気に眠っているユーリを見たら小言する気も失せてしまった。渋々タオルで包んでやりつつ、 偶然訪ねていらしたエステリーゼ様にユーリが女の子だと勘違いしていたことを含めて三つ編みに 苦労したくだりを話してみせた。彼女は誰かと違って素直で純粋で優しい心の持ち主だから、誰彼 構わず言い触らしたり冷やかしたりという心配もない。するとエステリーゼ様は、僕が想像すらして いなかった方向から攻撃を仕掛けてきたのだ。 「もしユーリが女の子だったら、フレンは今よりも苦労したんじゃないです?ほら、あの、その、特に 胸元、とか…」 さすがエステリーゼ様、と感服するしかない鋭い洞察力、恐るべき慧眼。そうだ、万が一ユーリが 女性だったとしてもユーリの本質は三つ編みだろうと何だろうと捻じ曲げることはできない。それは だらしない衣服の着崩し方にも言えることで、あの窮屈を嫌う性格が然るべき女性用の下着を身に 着けることも考えられない。そうなると激しい戦闘で無防備な胸元から女性の大切な部分がポロリ してしまっても本人は平然と「ああ悪ィ、はみ出ちまった」とちっとも悪びれていない様子でわしわし 無造作に服の中に戻すのだろう。それが世の青少年にどんな影響を及ぼすのかも知らないで。 ああ面倒くさい、ものすごく面倒くさいことになる。僕はその情景を思い浮かべただけですっかり 疲れてしまった。それもこれも全部ユーリが悪い。僕は腹立ち紛れに苦労して体得した三つ編みを 眠ったままのユーリに施して、胸元もきっちり閉じてやる。明日の朝、波打つ黒髪を見てみんなに 笑われればいい。この程度の復讐ぐらい、男だろうと女だろうと結局は君を好きだった僕にはその 権利があるはずだ、反論は認めない。 |