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剣士の括りでも右利き左利き、両手剣片手剣、流派等々、条件が違えば剣だこの位置や数も違う。 熟達した者なら手を見るだけでその人の性格や癖までずばり見抜いてしまうらしいとも聞く。その点 からいくと地上最強の黒獅子の称号を持つユーリであってもまだまだ未熟者といえた。何せ身近に 置いていた人間の手からその裏を見抜けなかったのだから。それがいまだに口惜しいのだと、暇を 見つけてはレイヴンの手をしげしげ観察する理由をそう零す。 休憩中の木陰、あるいは、皆が買い出しに出た宿。レイヴンのすぐ近くに転がっては武器の手入れ 中だったり雑誌の類を広げて夕食の献立について考えている最中だったりする手を、何の予告もなく いきなり我が物顔で取り上げて、手のひらや甲を穴が開くのではないかというほど真剣なまなざしで 眺めてくんくん鼻を鳴らしてにおいを嗅いだりするもので、青年ってば何なのよもうと文句を言うのも 忘れ、何やら新しい玩具を手に入れた子供のような真剣な横顔をそのまま大事にしておきたくなって しまう。しかし実際のところ、理由はそれだけではないようなのだ。単に剣と弓、その両方を扱う手が 見慣れないからではなく、あるときぽつり落とした言葉がやけに耳の奥に残っている。 「俺、おっさんの手好きだな」 それも理由のひとつであるらしい。というよりも、物珍しい目で見ていたのは最初のうちだけで長い ことそっちのほうが主たる目的であったそうだ。好きなものだから長く見ていたいというのはなんだか わかる気もするが、そうすると嗅ぐという行為はどういう意味を持つのか。なんか臭うの?加齢臭? 加齢臭って手からもするの?とレイヴンも試しに嗅いでみたものの、よくわからない。そもそも加齢臭 とは自分で嗅いでわかるものなのだろうか。それすら不明である。しばらくのあいだは黙って悩んで いたけれども、いい加減気になって当人に直接確認してみれば「おっさんのにおいがする」とのこと。 それってやっぱり加齢臭ってことデスヨネー。が、落ち込んでいるとユーリは首を横に振るのだ。 「おっさんのにおいは嫌なにおいじゃねーよ?」 あらそう?なら良かったわと安心するも束の間、今度はその"嫌ではないにおい"の正体がどこから 来るものか気になりだしたらしい。ちょっとじっとしてろと命じるや否や、手から腕、不安のよぎる脇を 通り過ぎて肩、背、腰、腹に回って胸元を通過、顔の真正面で向き合い、ひくひくと動く鼻やら、への 字に曲がった口やらの近さから無意識に身構えてしまう。片やユーリは緊張もしない。小首を傾げ、 おもむろにレイヴンの肩に手をかけさらに半歩前へ。視界に入らない場所なので何をしているのか 定かではないが、聞こえる鼻息からして耳のあたりでにおいを嗅いでいるのではないかと推測する。 そして改めて嫌なにおいじゃねーなと独り言のように言い、半端な体勢がだるくなったのか肩に顎を 乗せたままだらり力を抜く。途端、片側にずしりとくる成人男性ひとり分の重み。 細身ではあるが、やはり重い。背骨が変な風になりやしないかと中年に差し掛かって長い己の身を 案じつつ、もちろん目の前に居座られているので読書タイムも依然として中断したままである。肩が 自由なほうで本を持ち上げて視界に遮蔽物のないところで続けようと思えば可能ではあるが、時々 思い出したようにユーリが顎をカックンとやってくるので気が散るというか、頭の中であれこれ考える より青年よい、晩ご飯は何がいい?何か食べたいのとかある?と尋ねたほうが早いというか。当然、 クレープは却下で。デザートならともかくご飯のおかずにクレープはないわ。 「酢豚。パイナップル入ってるやつ」 ユーリがしゃべると顎が動くのを考慮していなかったので予想外の追加ダメージを食らいながら、 うーん酢豚ねえ…とぱらぱら雑誌をめくる。主要なおかずの作り方が載っている主婦向けの雑誌は そこらへんもカバーしているけれど酢豚にパイナップルは如何なものか。鳥の唐揚げにレモンぐらい 意見が真っ二つに分かれる代物だ。酢豚にするならするで、他の仲間にも確認しなくてはならない。 いっそのこと無難なおかずに変更するのもアリだ。中華な気分にしたって他にいろいろあるだろうよ。 麻婆豆腐だとか八宝菜だとか。美味しそうな写真付きのページをレイヴンの右斜め後ろ、肩の上に 居座る顔の前あたりに逆さまに差し出してみる。中華料理がいくつか並んだ写真をふーん?としばし 見て「杏仁ど」まで出かかった言葉を却下と切り捨てた結果。 「やっぱパイナップルの酢豚だな」 と、念を押される。ここで気をつけなくてはならないのは、もし現役の勘が働いたとしても青年さあ、 酢豚じゃなくてパイナップルが食べたいんでしょと図星をついてはならないということだ。この場合、 逆ギレという現象が起きて何が何でもパイナップルの入った酢豚が食べたいんだよ俺は!と拗ねる こと間違いなし。ただし、やんわり優しく穏やかに、デザートは別に作るからとひと手間増やすことで その危機は回避できる。しかも「じゃあ麻婆豆腐、うんと辛いやつ」とまったく違う観点の意見が引き 出せる。んじゃそれでいこうとレイヴンは夕飯の構想を練り直す。そのうち肩の上にいるのも飽きた のか、胡坐をかいた膝の舳先のほうに頭部を乗せて器用にごろごろしていたのが唐突にくせえ!と 喚くやまたぞろ羽織のにおいを嗅ぎだし、裾のあたりで顔を思いっきり顰めた。 「酒くっせ!ったく仕方ねえな」 よっこらせと立ち上がったユーリにおら脱げおら脱げと半ば追いはぎのような剣幕で迫られて渋々 腕を抜いた羽織は確かに小さな変色が見られる。怒り肩のままのしのし部屋の外に出て行った様子 からして洗濯してくれる気なんだろう。世話焼きというかなんというか。 それにしてもいつ零したものやらまるで覚えがない。もしかして、こないだひとの膝の上でだらだら 酒を傾けていたとき零したんじゃないの…?と思えば素早く証拠隠滅を図った行動にも合点がいくと いうもの。レイヴンは別に怒りゃしないけども、行儀が悪いと烈火のごとく怒る人物に心当たりがある でしょうよ。 夕食の献立も無事決まって、おっさんの膝の上は飲食禁止にしようかしらなんて思いながら武器の 手入れを再開する。鼻歌混じりのその手は剣士でも弓使いのそれでもなく、顎の下でも撫でてやろう と機を窺う飼い主のそれによく似ている。ふと手を止めてさんざ邪魔をしてくれた気配が去った寂しい 空間をじっと見、行動のよく似た動物の耳をつけた彼の姿を思い浮かべてひとり笑い声を漏らした。 「ありゃでかい猫だわ」 |