「 愛は惜しみなく奪ふべし 」



 この世界に生ける者であれば心に留めておかなければならない事柄がひとつ、万物の根源で
あるエアルについて。地底深くより出で、水にも大気にも等しく溶け込むそれは人間のみならず
魔物や動植物も命あるものすべて自覚の有無に関係なく皆その恩恵のもと生を謳歌していると
いう事実。鬱蒼と茂るケーブ・モックの大森林、コゴールの果てしない砂の海を見よ。片やエアル
過多により異常成長した巨木の群れ、片やエアルが涸れた緑の大地の成れの果てだ。すなわち
エアルは古の物語にある命を育む地母神のような存在でありながら正反対の性質を併せ持つ。
星喰みもまた然りだ。凛々の明星一行は身を以ってエアルがもたらす恵みと災いを知っている。
けれどよもや新たな災いが再び我が身に降りかかろうとは、いったい誰が予想できようか。
 人生には三つの坂があるという。上り坂に下り坂、それから"まさか"。思えばこの旅路はずっと
"まさか"の連続だったとユーリは思う。強いて漢字を当てるなら、魔の坂とでも表すのがちょうど
いい。そして彼らは今、エアルが原因のなんたらかんたらによって、禍福表裏一体の世界の理を
再度体験している真っ最中だった。

 あらあら、困ったことになったわねぇ。そうとは思えない真剣味に欠ける声がエアルクレーネの
定期巡回を終えたばかりの仲間の耳にひときわ涼やかな響きを以って届く。が、あいにく相槌を
打つ者はいない。予想外のエアルの大量噴出に遭遇し、暴走する魔物との攻防に追われながら
どうにか収束に漕ぎつけた直後だ。おかげで一行は口も利けないほど疲労困憊、なのではなく。
 たおやかで独特の雰囲気を持つ彼女特有の仕草同様、柔らかく悠然としたジュディスの口調は
抑揚こそ普段と変わり映えしないものの、全体的な音域は周囲の記憶より随分と低かった。逆に
すらりと高い背はさらに縦に伸び、比例して体つきも逆三角形にがっしりと。高露出・少布面積を
誇る普段着が今にもはちきれんばかりの変貌を遂げている。他方、背丈がぐんと縮んで筋肉まで
みるみる萎み、その埋め合わせが妙なところに収束したらしいユーリは、変化の中で特に顕著な
部位を眼下に見下ろしてどうしようもなく打ちひしがれている。
 親友と衝突不可避の激しい対立をしたとか、仲間と信じていた男が裏切り者だったとか、いっそ
人生丸ごと投げ出したくなる絶望の淵にあってさえこれほど強く打ちめされていたろうか?いや、
あのときのほうがなんぼかマシだった、絶対マシだった!と固く両の拳を握り締め、ユーリは真の
絶望に伏した人間にしばしば見受けられる失意体前屈を崩さない。要するにoとrとzで構成される
アスキーアートのアレ。まさに気分はどん底。特に変化のない仲間たちはどう声を掛けたらいい
かもわからない有様だ。彼の性格上、下手に地雷を踏めば傷口に塩どころか濃硫酸を塗りたくり
かねないことを重々承知していたので。
 助平心のあるなしはともかく、ジュディスの大胆かつ豊満な胸元は誰でも一度は目を奪われる
はずだ。誰かさんみたいにオープンでもなくうっかり本音をポロリしてしまうことも滅多にないが、
ユーリとて立派な成人男子。癖なのかわざとなのか、やたら胸を強調するあのポーズでなんなら
触ってみる?とさりげなく誘われたら「え、いいのか?じゃあ遠慮なく」と手を伸ばしかけて「オイ、
それは普通に駄目だろ」と理性が少し遅れて止めに入る程度には好きである。しかし、女性の胸
そのものが欲しいとは誰も言っていない。そんなこと思ったこともない。なのに、これは何の罰だ。
天罰にまったく心当たりがないといえば嘘になる。だがこんな罰を与える神様はきっと性根が捻じ
曲がっているに違いない。両手両膝をついた体勢を長く続けていると、重力もあってよりいっそう
ずしりと響く。そんだけでかいと邪魔にならねえのかな?とは常々思っていたけれど本当に重い。
こんなハンデでよくあんな風に動けるものだ、尊敬に値する。果たして自分はどうだろう、やって
みないとわからない。というか、それ以前の問題。今はただただ悲嘆に暮れて立ち上がる気力も
ないのが実状である。
 いったい何が起きたのか?
 要するに大量のエアルが悪さして、ジュディスとユーリの一時的に性別が逆転してしまった、と
いうことだ。つまり女性であるジュディスは男性に、男性であるユーリは女性に。世に名を馳せる
天才魔導士ことリタの見解によればそのうち元に戻るだろうから大丈夫、心配無用とのこと。が、
そのうちっていつ?という質問に対する返答はリタらしくもない、何とも曖昧なものだった。何しろ
前代未聞の症例だ。万が一元に戻れなくても命があるだけ儲け物じゃないと言われれば確かに
そのとおり。
 しかし、しかしだ。二十余年男として生きてきた者に、起きてしまったことは仕方がないのだから
すぐ気持ちを切り替えろとはまた酷な話だ。ズゥンと重い、可視不可視、二重の負荷にユーリの
心は押し潰されそうだ。おまけに突き刺さる視線が非常に痛い。その発生源は桃色の副帝殿下
から発せられる、負の感情。殺気はなくても十分に怖い。これで鈍器のようなものを持っていたら
アンノウンのトラウマが蘇る。
 原因は繊細な女性心理を理解した上でより慎重な対応を求められる場面において、不可欠の
配慮に欠けるというか空気が読めないというか、そういった点では生まれついての唐変木としか
言いようのない未来の騎士団長閣下が先ほど笑顔で要らんことを言ってくれたせいだった。
「正確な数字は測ってみないとわからないけど…D、いや、Eだね!」
 トップだのアンダーだの、そもそもユーリは細かい数字にこだわりを持たぬ性格なのでほとんど
細かいところは知らないのだが、とにかくそのEとやら、どうやら生来の女性であるエステルよりも
大きい、らしい。
 あれでいて見るところはがっつりと見るフレンはとりわけ目が利いた。ジュディスほどではないに
しろ、男性であった頃にも多々問題のあった胸元のおかげで検体に触れることなく数値をぴたり
言い当ててしまったほどだ。たわわに実る二つの丘がいつポロリを起こすやも知れぬ危うい状態
では予想外に純情なおっさんを含め、将来有望な少年に悪影響があるかもしれないということで
急いで最寄の街に向かい、然るべき下着を購入しようとサイズ云々のやり取りに発展し、それが
きっかけでこの事態を招いてしまった。女の妬みは怖いものだ。かつてヤンデレの被害に遭った
ユーリなどすっかり心得ている。心優しき姫君も嫉妬を越えてもはや憤怒の域にある模様。噴火
寸前の活火山にも似た震える空気に、ユーリは変な汗が止まらなかった。
 下着ついでにジュディスも惚れ惚れする美青年とはいえ、いっぱしの男性がぱんつ一丁に近い
出で立ちで往来を歩くのもどうかということになって衣服を調達した結果、いつもと違う顔ぶれの
美男美女が誕生する結果と相成った。単体でも目立つ人間が二人も揃うと相乗効果は凄まじい
ものがある。居心地が悪いったらない。また、気配に敏いと衆目に現れた変化をも察知してしまう
からなおさら厄介だ。好奇心や嫌悪ならまだしも、自分が欲望の対象として見られるのはたいそう
気色が悪い。中身は男ですとあらかじめ張り紙しようと解決すまい。ジュディスは日頃どうやって
この手の不快感を受け流していたのやら、見当もつかないユーリはますます落ち込んだ。
 その背を見るカロルは複雑だ。如何などん底にあろうとも、しゃんと伸びた背筋とまっすぐ前を
見据える力強いまなざしが苦境のさなか折れそうな心を支え、どれほど皆を勇気づけたことか。
それがしゅんと萎れ、借りてきた猫よろしく気弱に丸まっているのを見ていると、幼く淡い恋心しか
知らないカロルでも庇護欲や使命感のようなものが湧いてくる。大丈夫だよユーリ!僕、頑張る
からね!と漠然とした応援を受けた当人は力なく「おう…」と応えるのが精一杯だったが。
 ところで同じく突然性別が変わったジュディスの反応といえば、普段と変わらないどころか至極
楽しそうである。こういうアクシデントならこっちは大歓迎だけれど?と手遊びに槍を振り回す動作
にも腕力を生かして微妙な変化を出し、まるで最初から男だったように違和感なく振舞っている。
「何なんだよ、その適応力…」と心中で恨めしく毒づくも、重石を仕込んでへもへもと歩くユーリが
段差につまづいて危うく転倒しそうになればさっと手を差し出し、紳士然とエスコートしようとする
始末。それが必要な淑女は別にいるだろうに。こなれた仕草にげっそりする。せめていつもどおり
接してくれと懇願すると、にっこり笑って承知する代わり耳元にそっと爆弾を落としてくれた。
「前々から既成事実を作ってみたらどうかしらと思って隙を狙っていたのだけれど、今のあなたは
いつもよりずっとおいしそうね、食べちゃいたい」
 音の羅列が脳に到達して意味を理解するよりも早く背筋にぞわわ、と寒気が走り、思わず飛び
退いた。ジュディスは普段から本気なのか冗談なのか区別のつかないことを口走る、少々面倒な
性格の持ち主だ。ユーリもこの手の言動にまるで覚えがないとは言わないが、しかし似た者同士
ならではの直感で時々冗談を装いつつも本気という、輪をかけて面倒くさい真似をしていると察知
することがごく稀にあった。そう、それが今だ。こいつは襲う。食べちゃいたいなんて生易しいもん
じゃない。こいつは襲う気満々だ。どうすればいい、変な汗が冷や汗に変わっていく。
 実際、こうなる前でさえ危機感を覚えたことが何度もあったのだ。恋愛感情があるにしろないに
しろ自分たちの性格ならばそんなもの置いて関係を結び、翌日にはなかったことにするのも難しく
ないはず。けれど優位な立場にあるユーリのほうが仲間としてそれを望んでいない。ジュディスに
したって仲間は何物にも替えがたい大切なもの。だからこそユーリの意思を尊重する。積極的に
誘惑はしても、一線は踏み越えない。少なくとも勝ち目のない勝負をするつもりは毛頭なかった。
 ところが今、絶対的に優位なのはジュディスのほうだ。体力や腕力の差はもちろんのこと、元々
空中戦に縺れ込めばどちらが勝つかわからないほど拮抗していた実力差が今や完全に逆転して
いるのだから、本当に狙う気ならばこの機を逃す手はない。さらに言えば、ジュディスはユーリの
弱点を熟知していた。たとえ絶体絶命の危機であっても、私のことが嫌いなの?と涙という名の
最終兵器を突きつけてしまえばいとも容易く抵抗する術を失うだろうことは明白。とことん押しに
弱い男、それがユーリ・ローウェルだった。
 宣戦布告は為された。こうなったら夜だろうと昼だろうと宿屋だろうとゴザの上だろうと彼女、否、
彼は戦場を選ばない。ぶるる、と背筋を走る寒気に改めて己の置かれた状況を自覚した刹那。
負けじと早々に得意の腹を括ったユーリはしっかと愛刀を握り締め、相棒に目配せするや否や
脱兎のごとく走り出した。ひとまずできるだけ遠くへ!街を出たら森に逃げ込んで空からの目を
掻い潜り、元の体に戻るまではひたすら逃げ続けるという作戦だ。おとなしく喰われてたまっかよ
オオオ!声で居場所がバレたら元も子もないので心の中で負け犬の遠吠えをひとつ。
 仲間内で喰うか喰われるかの争いをしているとは知らぬ仲間の驚く声に背を向けて走り続ける
彼、否、彼女はそれからわずか数秒後、総重量でキロ単位にも及ぶ重石のせいで失った本来の
機動力の重要性を思い知ることになる。結局、既成事実とやらはどうなったのか。先んじて元に
戻ったジュディス曰く、予想どおり甘くておいしかったそうな。





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