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もちろん相手は自分以外の男性である。よりにもよって同じ大学の同期の男 だったがよく知らない人物なのがせめてもの救いだった。彼女の趣味だろう わざわざゲストを遠くイギリスくんだりまで呼びつけてのイングリッシュガーデン ウェディングと銘打った式はそれはそれは見事なものだったが最後の最後でも 祝福の言葉しか告げられなかった己の不甲斐なさに菊は宿泊先へと向かう 道すがら引き出物のワインに早速手をつけた。おそらく紳士の国で酒をラッパ 飲みしながら歩く行儀の悪い日本人を見るのは初めてではないだろうかと菊は 何やら可笑しい気持ちになってこのまま日本人の入国が禁止になってしまえば いいのに、二度と本場のイングリッシュガーデンウェディングなんて面倒なものに 呼ばれる人間がいなくなればいいのにと八つ当たり的なことを半ば本気で考えて いた。そのうちかの有名なビッグベンが視界に入ってきて、失恋ついでにあそこ から飛び降りてやりましょうかね、それともテムズ川に身を投げて、とその気も ないくせに自嘲めいてつぶやいた途端、それは困るなと声が聞こえた。英語の 国でまさか日本語でのツッコミが入るとは思わず菊は目を丸くした。そこには 絵に描いたような金髪に緑の目をした美貌の紳士が立っているではないか。 次いでひとつの癖もない完璧なクイーンズイングリッシュでここで死なれると 厄介だ、どうしてもというならドーヴァー海峡を渡ってから死ぬといいと南東の 方角を指した。おそらくその先にパリはあるのだろう。菊は、しかし先ほどの 流暢な日本語に呆気に取られていた。あんな恥ずかしい呟きを聞かれるとは 思いもしなかった。酔いは一瞬で冷め、一張羅も乱れきってみっともない格好を しているのを慌てて取り繕い、お上手ですねと褒めつつもどこで習ったのかと 尋ねれば彼は大学でとしか言わなかった。そして逆になんで死のうと思ったのか 問われる。見ず知らずの青年に話すのは憚られたが、見ず知らずの青年だから こそ打ち明けられることでもあった。十年の片思いの終わりを一通り話すと彼は 菊が手にしていたワインを奪い取り、残りを一気に空けてフランス産のワインじゃ ねーか、だから悪酔いするんだと苦々しい顔つきで言い捨てて近くに行きつけの パブがあるからと菊の手を強く引いた。要は飲んで忘れろということか。菊は彼の 案内についていき、その夜は知り合いらしい青年たちと散々グラスを鳴らしあって しこたまギネスを飲み失恋記念の祝杯とした。思い残すことはなくなった、これで 身軽な体で帰国できるとそう思っていた。けれど翌朝目覚めたとき、菊は自分が 宿泊先に戻っていないはずなのに温かなベッドで眠っていることに気がつき、 驚いた。そしてやけに生ぬるい枕だと思って抱きついていたのは生きている人間 だったのだ。女性ならばまだ男として救われる道だがその裸の胸は真っ平らで 女性の持つ丸みとは程遠い。その顔は先ほどパブに誘ってくれた青年そのもの であった。さらに救われないことに、双方衣服を一切身につけていなかったのだ。 幸い彼はまだ眠りの中にあった。これ以上追い討ちをかけられないうちに菊は ベッド横に散らばった服を手早く身につけ、途中でタクシーを拾いどうにかホテル へと逃げ帰る。あとは観光どころではなく、菊は日程を繰り上げて早々に帰国 するに至った。 それから一ヶ月が経ち、とんでもないイギリスの思い出を持ち帰ってしまった 菊はなんとかあの日の過ちを忘れようとしていた。行為に至った経緯、行為の 最中の記憶はまるで思い出せないが最悪の事態が起きたのは臀部の痛みから 間違いないのである。今は癒えてきちんとデスクワークもこなせるが、その日は 始業前に部長に呼び出された。本社から日本支社に出向してくる人間がいる とかで菊は事前に説明を受けた。何でも若手ながらやり手のエリートらしい。 その一切の面倒を見るように任され、菊は厄介ごとだと思いながらも頷くより ほかにない。なに、向こうは日本語もぺらぺららしいから苦労はないと思うよと 部長は他人事だと思って菊の内心などどこ吹く風だ。菊の勤める企業の本社は イギリスにある。日本語の出来るイギリス人ということで嫌な予感はしたがよもや そんな奇跡があり得るとは思わない。そのうちになんだかんだでその本社の 人間が来る時間になり、現れた男に菊は三度仰天した。 「やあミスタ本田、久しぶりだな」 素人でも一目でそうとわかる高級品のスーツ一式を身にまとい、いつのまに 抜き取られていたのやら菊の名刺をひらつかせながらいつぞやの金髪に緑の 目の美貌の紳士はにこやかに握手を求めて右手を差し伸べる。 |