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不自由する人間も少なくない下町において、書物は貴重品だ。とりわけ実用性に欠き、なおかつ 小説や絵本といった娯楽目的の代物はどうしても疎遠になりがちだ。実をいえば僕も以前はその クチで、興味を示すどころか書物を楽しむこと自体エステリーゼ様に教わるまで知らなかった始末 なのだ。もちろん優先すべきは知識の吸収だ、時として知識は剣よりも有用な武器になる。そして 精神的な疲労が溜まったときなど、気分転換がてら物語の世界に浸る。正しく強い精神を持った 騎士の物語、あるいは醜い姿ながら優しい心を持つ獣の物語等々、創造性に溢れる冒険小説は ほんのひと時現実の忘却を誘い、物語の世界から戻った僕を勇気づけ、また、温かい気持ちにも させる不思議な力を持っていた。 エステリーゼ様の本の趣味とは少々方向性が違うけれど、彼女の言ったとおり書物とは単純に 情報を書き記しただけのものではない。是非ユーリにも読んでもらいたいと思ったものの、必要に 迫られている魔導書すら頑なに手をつけようとしなかったあの有様じゃ勧めるだけ無駄というもの だろう。治癒術のひとつでも習得していれば、といった場面が過去何度もあったことを思うと詮の ない仮定の話がいくつも脳裏をよぎっては消える。だけどそれらは今更もう現実にはなり得ない。 いい結末を迎えるにしろ悪い結末を迎えるにしろ、それこそ想像上の物語だ。 取り留めのない思考の連続に、どうやら僕はちょっと疲れているらしいと悟る。決裁待ちの書類 から日付の迫ったものを抜き出し、手早く処理を済ませて、いつもより早めに床に就く。それでも 夜半はとっくに過ぎていた。ランプの明かりを吹き消すと、蓄積されていた眠気はあっという間に 襲ってくる。僕にとっての理想の物語は、夢で会えたらそれでいい。 朝、目が覚めて最初にすることは一日のスケジュールの確認だ。予定がぎっちり詰まっている 中で、どこをどう動けば無駄を最小に抑えられるか。全体像を把握しておくことが時間の節約に 繋がる。しかし驚いたことに、この日の僕の予定は真っ白。どうも休日らしい。日にちを間違えた わけでもない、証拠に翌日からはぽつぽつと手帳に書き込まれてある。だが、そのどれもが今の 僕の仕事ではないように思われた。 たとえば来週から予定に入っている騎士の巡礼。そう遠い昔のことではないのに、妙に懐かしく 思い出した。騎士の巡礼の名目で出立した僕たちの真の目的は、何者かに誘拐されたヨーデル 殿下の奪還、及び首謀者の逮捕だった。そして、僕が不在のあいだにユーリはエステリーゼ様を 伴って帝都を発ち、重い灰色に覆われたカプワ・ノールで慌しく再会を果たす。それからのことも 僕は鮮明に記憶している。なのに何故今更。まるで過去の出来事を追体験しているかのようだ。 クローゼットに小隊長時代の隊服しか入っていない点においても追体験という表現が一番しっくり くる。どうしてこんなことになってしまったのか。 混乱する頭と暴れる動悸を必死に宥めて城内を歩き回ると、小隊長である僕宛てに話しかけて くる者や大罪人と成り果てたはずのアレクセイ親衛隊が悠々と闊歩するさまなど、僕の知る現実 とは異なる光景がそこにある。本当に過去の世界なのか?いや、そうではない。廊下で無駄口を 叩く騎士たちは姫様がまたも城を抜け出して云々と噂話をしていたし、ヨーデル様もアレクセイに 剣術の手ほどきを受けていた。記憶と食い違う現実に僕はおおいに戸惑った。そのときふと思い 出す。エステリーゼ様に借りた本の中に平行世界を主題とした物語があったことを。 太陽が月が西から昇って東に沈んだり、あるいは男女の役割が逆転したりと、世界の有り様や 人々の営みに大きな差異はないが、本来在るべき世界とは似て非なる世界。もし実在するならば ここがまさしくそうだ。悪い夢だと目を覚ましたいのは山々だけど、つねった頬はやはり痛い。そう なると目下の問題はどうしてこんな世界に来てしまったのかよりどうしたら元の世界に戻れるか、 だ。幸い今日は休みだ。ユーリなら最初こそつれない態度でどっか頭でも打ったのか?と聞いて くるかもしれないが、僕が極めて正常で真剣に困っていることを訴えればきっと力になってくれる はずだ。部屋に戻った僕は簡素な私服に着替え、下町を目指した。 長い坂道を下りながら、もうひとつ僕の知る現実とは異なる要素を考えた。この世界にユーリが 存在しない可能性。もしくは、ユーリが僕の知っているユーリとは違う境遇にある可能性。騎士を 辞めていなかったら嬉しいな…なんて都合のいいことも考えた僕はまだまだ甘い。念のためまず 箒星に顔を出す。世間話で情報を仕入れつつユーリの居場所を聞けば二階の角部屋に居候して いるらしく、少し拍子抜けする。どうやらそこは変わっていないようだ。安心してドアを叩く。直後、 軋んだ蝶番。なんだフレンか、そんなとこ突っ立ってないで入れば?と聞き慣れた声。けれども、 僕の知らないユーリはちょうどいいから帯結んでくれよと僕に言うのだ。 いつもの帯を僕に押しつけて背を向けたその左、中身の入っていない袖がぷらぷら宙を泳いで いる。腕が、ないのだ。驚いて、僕はとにかく驚いて、ユーリの体をひっくり返した。先のほうから 袖を握って、腕の行方を無我夢中で探した。しかし肩口に行き着くまで手ごたえはない。無理やり 剥ぎ取るように素肌を露わにすると、わずかに盛り上がる肉と色合いの違う薄皮がその切り口を 覆って、見るも痛ましい姿を生々しく晒している。僕は知らない、こんなユーリなんて、知らない。 こんな、こんな大きな怪我、いつ、どこで、誰が君を。ろくに呼吸もできない。胸が苦しい。心臓が 押し潰されそうだった。動揺するばかりの僕に、お前のせいじゃないって何度も言ってるだろ?と 優しい声音が降ってくる。僕はとうとう泣き出してしまった。おかげでみんな、生きて帰ってこれた じゃねえか、な?だからお前が気に病むことなんかない。そうだろ、フレン?ユーリは子供に言い 聞かせるように僕の髪を撫でている。生きて帰ってこれた?何のことだ?と思いながらも実際は それどころじゃない。困った風にため息を吐き、ベッドに腰を下ろしたユーリ。僕はその胴にしがみ ついたまま離れない。離したらまた向き合わなくてはならなくなる。無残に片腕を失ったユーリと。 悲しくて、ただ悲しくて、僕は泣いた。小一時間ほどしてラピードが外から帰ってくる。僕を呼ぶ 心配そうな鳴き声に、初めて自分がとんでもなくみっともない有様だという事実に気づいたけれど 取り繕う余裕もなかった。誰かさんに似て、人の心の柔らかいところに土足で踏み込んだりしない ラピードは情けないもうひとりの飼い主に呆れる素振りもなく、ユーリの手が優しく頭を撫でるのを 尻尾を振って歓迎していた。その際、目に入ったのはラピードの魔導器だ。当然ユーリにはない、 右手にもだ。ラピードの武醒魔導器はランバートの形見、ユーリの武醒魔導器はナイレン隊長の 形見だ。あのとき、隊長が何を思って武醒魔導器をユーリに託したのか。今の僕にはなんとなく わかる気がする。星喰みを倒し、世界が魔導器の恩恵を失ったあとでも隊長の形見として大切に 持っていたユーリがそれを持っていないということは、つまり。"みんな生きて帰ってこれた"という のはつまり、隊長を助けるために。 僕の記憶では崩壊の真っ只中のあの状況で隊長を助ける手段はもはや存在しなかった。僕の 知らないこの世界ではユーリの左腕が犠牲になることで他の道が切り開かれたのだろう。隊長が 生きていること、それ自体は嬉しい、本当に。だけどそれとこれとは別だ。ユーリは自ら騎士団に 背を向けたのではない、利き腕を失った以上退団する他ないのだから。でも、それすら覚悟の上 だったはずだ。だからこそ彼は誰のせいでもないと言う。自分で選んだことだと言う。この世界の 僕はあの日からいったい何を考えているのだろう。どう彼に向き合ったのだろう。僕はこの世界を 受け入れられない、少なくとも"僕"には。 ぐううう、とお腹の鳴る音で我に返る。いつの間にか太陽はてっぺんに近いところに来ていた。 今朝メシまだなんだよ、お前は?と尋ねてくるので僕もまだ、と応える。じゃあ作ってやるから下 行こうぜ、とひとまず帯を結べともう一度要求してくる。え、その体で?と思ったものの口に出して いいものかわからない。とはいえ声にしなくても僕の考えなんかユーリには最初からお見通しだ。 味なら心配ねえって、任せなと自信たっぷりの表情は僕が知るユーリそのもので、それが余計に 辛い。箒星の調理場を借りて作られたコロッケは片腕しかないというのに舌に馴染んだユーリの 味だ。包丁を使う作業こそ苦労しながらも、結局やり遂げてしまう器用さはさすがというかなんと いうか。 横槍を入れてくる女将さんの話によると、騎士団を辞めてからのユーリは箒星の手伝いを生業 としつつ、頼まれれば用心棒の真似事もしているようだ。この世界では貴族と平民の境はさほど 明確ではなく、敵はもっぱら魔物らしい。"僕"は危ないことは止めてくれと再三注意しているのに ちっとも聞こうとしないんだとか。僕の場合は何かやるべきことを見つけろだの、何でもいいから 旅に出てみたらいいだの、いつまでも下町で燻っているユーリを叱咤していたら勝手に旅立って くれたのだからまだいい。"僕"はどうしたらユーリを安全な場所に留めておけるか気が気でない だろう。心中察するに余りある。 でも、もしユーリがこのまま旅に出ることもなく、安全な帝都で一生を終えるとしたら?彼はいつ どうやって広い世界を知るのだろう。特別珍しいことではない、人々の大半は結界から出ることは ないのだから。それでもいつか知るはずの青く果てない海も、草いきれの心地よい風も、青々と 茂る大森林も、荒涼とした砂漠も、大海と大空を泳ぐ船も、まだ見ぬ強大な魔物も、世界の礎たる 始祖の隷長も、新しい世界の象徴たる精霊も、旅先で知り合う人々や心を通わせた仲間たちさえ 知らないまま。かつてのエステリーゼ様のように、広い世界から切り離されたほんのひと欠けに 過ぎない小さな小さな世界で暮らしていくのか。あのユーリが。自由に生き、自由に生きるが故に 代償を背負い、それでも重圧に呑まれない強さを秘める男、僕の親友、僕の半身。それでいいの だろうか?けれど、利き腕を失った彼に旅に出ろなんてとても言えやしない。ユーリのことだから 右腕一本でも相当な使い手になるはずだ。それでも言いたくない。君を失うかもしれない危険な 旅なんて送り出せるわけがないんだ、絶対に。彼が僕のユーリじゃないとしても。 結局、僕は何も協力を得られないまま城に戻った。片腕のユーリにはこれ以上負担をかけたく ない。別れ際、もうすぐ騎士の巡礼に出るんだって?帰ってきたら旅の話でも聞かせてくれよと 見送ってくれた笑顔が胸に痛かった。僕の知るユーリは僕の主観に基づく感想なんか求めちゃ いない。如何に多くの人がハルルの樹が素晴らしいと誉めそやしてもユーリにとってはそこらの 雑草と同じ。己の目で見て、直に触り、花の香りに浸って初めて価値があるものになる、それが ユーリだ。時間を経るほどに僕はこの世界に違和感を覚える。だけど出口はいまだ見当たらず、 任務を放棄するわけにもいかない。 どうすることもできない僕はそのまま小隊を率いて巡礼の旅に出る他なかった。ハルルは例年 と変わらぬ見事な満開を迎え、ノール港は卑劣な執政官の陰に怯えることもなく活気に溢れる。 カルボクラムは滅びることもない。ユニオンと協定が結ばれているダングレストではドンの歓迎を 受け、ノードポリカもマンタイクもテムザも特に大きな問題はなく、世界は平穏と安寧の中にある。 僕は気づいた。この世界ならユーリは誰も殺す必要がないのだ。僕は密かに歓喜する。この世界 こそ僕の理想ではないか!誰も望まぬ罪科を負うことはない。騎士団は人々の剣となり盾となる ためにあり、誰も理不尽な暴力や搾取に涙を流すことなく、団結して魔物や困難に立ち向かう。 独善的な野望のために自由や生命を奪われる者もいない、なんて素晴らしい世界だろう! 「本当に?」 そのときだった。殴られたような衝撃のあと、僕自身の声が頭の中で踊る。ユーリのあんな姿を 見て本当にこれでいいと思えるのかと、偽者の僕を追い出すかのように何度も何度も反響する。 もしユーリが治癒術を習得していたら?と同等の仮定の話だ。もしユーリが旅に出る前に大事な 利き腕を失っていたら、彼は人を斬ることはなかったろうか?考えても考えても答えは五分五分。 そうだ、これは意味のない仮定の話。想像上の物語と何の違いがあるだろうか。僕にとって重要 なのはどうしてユーリが人を斬ったのかではなく、どうしたら二度とそんな選択をせず済むのか、 だ。時間を巻き戻すことはできない、どんな罰を受けたとしても彼の罪はなかったことにならない。 だから間違えてはいけない、僕の理想の物語は僕の手で現実にする。だから神様、僕はこんな お仕着せの夢物語なんかお断りだよ。 目を開けると僕はエステリーゼ様やヨーデル陛下、凛々の明星一行といった錚々たる顔ぶれに 囲まれている。寝台のすぐ横にはユーリの姿もある。もちろん彼の両腕は健在だ。待機していた 医師の話によると、僕は毒を盛られて一週間ものあいだ意識不明だったらしい。下手すれば命の 危険すらあったとか。どうりで普段はなかなか城に寄りつかないユーリまでもが今にも倒れそうに 青白い顔で僕を見つめているわけだ。 下町出身の下賎の若造が騎士団長の地位にあることが許せないという連中は、すでに凛々の 明星の協力で捕らえられたとソディアに聞く。なんとも仕事の早い、頼もしい部下を持って嬉しい 限りだ。お前がそう簡単にくたばるわけないと信じてたからな、と勝ち誇った笑みの割りに随分と 心配かけたようじゃないかと目の下の隈を証拠の武器として突つく。するとお前の魘される声が やかましくて眠れなかったんだよと思わぬ逆襲を食らった。悪い夢でも見てたのかと聞かれれば 確かにそうだ。そう、あれはひどい悪夢だった。もしユーリをいつまでも僕の腕の中に閉じ込めて おけたらなんて、バカバカしい願望も含めてありったけの"もしも"を詰め込んだ、胸焼けしそうな ぐらい幸福で反吐の出る、胸糞悪い夢だった。力強く握り締めたユーリの左手は罪に浸したから こそ二度と手放せない、大切な温もりを持っていた。 |