「 再発性ナンセンス 」



 卒業から干支がちょうどひと巡りした頃になって同窓会の知らせが届いたことは
菊に小さな驚きをもたらした。進学と共に地元を離れて以来、まともに連絡を取り
合う同級生もないのに、クラスでも一際地味だった自分の存在を覚えている者が
いるとは思わなかったのだ。日時はちょうどお盆のさなかで遠方に住む人も帰省
ついでに、ということだろう。菊は出席と欠席の欄をじっと見つめて悩んだ。元々
酒を飲むのは好きだが、顔や名前もうろ覚えの集団に囲まれて飲んでもあまり
気持ちよく酔えそうにない。それどころか気まずい思いだけして後味の悪い酒に
なってしまう可能性のほうがずっと高い。にも関わらず出席に印をつけて葉書を
送り返してしまった理由は本人の意思と別に存在するような気がしてならない。
体調を崩したとか急に仕事が入ったとか親戚に不幸があったとか、当日も欠席
する理由はいくらでもでっち上げられたのに、会場であるホテルの広間まで足は
勝手に動いて、二次会の居酒屋にもついていく有様。意外にも菊のことを覚えて
いる者は多く、昔の話はいい酒の肴になった。菊そのものを覚えているというより
まるでセットのようにいつも一緒だった友人のせいで強烈に記憶していたらしい。
それはそれで多少ちくりとする部分はあれど、まずい酒を飲まないで済んだのは
良かった。その"友人"は二次会から参加するそうだ。菊は特に会いたいと思って
いなかった。むしろ誰よりその"友人"に会うことを避けたかった。反面、今は何を
しているだろうと最後に会ってからのことを気にしていた。口伝てでいいから誰か
教えてくれていたら二次会は逃げ出していたはずだ。だが誰に聞いても十年前に
彼は地元から姿を消して連絡もなくそれっきりだという。何かあったのか?なんて
聞かれても菊が知るわけない。オードブルの料理が粗方消えて空瓶が相当出た
あたりで突然「悪ィ悪ィ、仕事が入っちまって!」と懐かしい騒々しさが耳に入って
くる。まるで心臓を鷲づかみにされたような感覚だった。どくんどくんと脈を打って
押し出される血流が尋常ではない速度で全身を駆け巡る。菊は今すぐここから
逃げ出したいと思った。正確には会いたくなかったというより会うのが怖かった。
"友人"は空席の関係でよりによって菊の目の前に座る。銀色の髪は後ろに撫で
つけられて、ボサボサだったあの頃の面影はない。縁なし眼鏡が表情に陰影を
つけて大人の渋みを醸し出す。小物まで洒落ている一流品のスーツはネクタイと
ボタンをラフに寛げてはいるが、黙ってさえいれば嫌味なほど美形であったことを
存分に思い出させる。中身はどう変わっただろう。横目で探りを入れようとして、
図らずも目が合ってしまった。逸らしたらそれこそ避けていると認めたも同然だ。
内心焦る菊に"友人"は「久しぶりだな、どうせお前のことだから来ないと思った」
と口の端を吊り上げて笑う。"友人"ことギルベルトは、菊の出不精を知り抜いて
いるからきっとそんな風に言うのだ。平静を装って、せっかくお盆で帰ったのでと
模範解答をすれば「ああ、だよな」と応えてギルベルトはそれきり菊に話しかける
こともなく、仕事で遅れた分を取り戻そうと次々にビールを平らげた。大口叩いて
大騒ぎしては迷惑を振りまく性質は年齢を重ねておとなしくなったようだ。十年の
月日は偉大だ。不意に、菊はギルベルトが指輪をしていないことに気がついた。
オシャレのためのものも、婚姻を示すものも、節くれだった長い指には何もない。
まだ結婚してらっしゃらないのですねとつぶやくと「お前もな」と同様にまっさらな
指を指摘される。同級生には結婚して子供がいたり、離婚した者もいる。三十代
ともなるとそろそろ周囲の風当たりも厳しい。予定はないのですか?と尋ねる。
ギルベルトは「ねえよ」と即答したあと、どこか遠くを見るように「独り身のほうが
気楽だ」と言った。菊は否定も肯定もしなかった。やがて酔い潰れた数が増えて
飲み足りないごく小数の酒呑みだけが三次会に参加する流れになった。菊はもう
充分だった。ギルベルトは当然参加するだろう。二次会の参加費を払って帰途に
着く。タクシーをつかまえるべく大通りに向かう途中、唐突に腕を掴まれた。振り
返ったそこに三次会に向かったはずのギルベルトが立っていた。走ってきたのか
呼吸の荒いギルベルトは無言のまま菊の手を引いて薄暗い路地裏に押し込む。
さまざまな料理の匂いが入り混じって不快な飲食店街の路地には無数のゴミや
酒瓶が転がっていた。ギルベルトの腕力に菊が勝った試しはない。逃げたくても
逃げられない。菊はそのまま壁に押しつけられて噛みつくようにくちづけられた。
息を吸う暇もろくに与えず、二度三度と繰り返されるくちびるは煙草臭い。銘柄を
変えて、本数も随分増えたらしい。昔のギルベルトは煙草を吸うのをかっこいいと
思っている節があった。あれぐらいの年頃にありがちな思考だ。今は単純に趣味
嗜好として喫煙しているのだろう。煙草が苦手な菊には嫌な後味だった。向こうも
向こうで酒臭いと思っているに違いない、舌を差し込んできた表情が歪む。一体
どれだけのあいだそうしていたのかわからない。お互い息が上がって、そうする
ことしか知らない子供のように必死なキスだった。菊は抵抗を諦めた。酔っていた
のと、力ではどうにもならないのと、それと。
「…私たち、十年前に別れたじゃないですか」
 苦しい息の合間に菊は睨むように見上げた。整えられた髪をぐしゃぐしゃに掻き
乱し、記憶に近い姿に戻るとギルベルトは再度くちづける。今度は呼気も唾液も
奪うそれではなく、ただ触れるだけで終わって菊の痩躯に縋って「やり直そう」と
ギルベルトは耳元で懇願する。自分勝手だと菊は思った。卒業の半年前に告白
してきたのはギルベルトだった。不良気味のギルベルトと優等生の菊。おかしな
取り合わせだと散々揶揄されながらもいい友達だと思っていたのに、その関係は
ギルベルトの告白によって崩されてしまった。でも嫌ではなかった。新しい領域に
踏み込むことでギルベルトの知らない部分だけじゃなく、自分の知らない部分も
見えた気がした。もしかしたら自分は告白を受ける前からずっとギルベルトが好き
だったのかもしれないとも思った。その関係は菊の進学で離れ離れになった後も
続き、毎日メールして、休日前には電話もして、連休になれば就職したばかりの
安月給を貯めたギルベルトが上京したり、盆暮れには帰省して時間を共有して、
卒業したら故郷に帰って今までの分を埋めていくのだと信じていた。しかし菊の
希望を壊したのもまたギルベルトだった。
『会いたいときにすぐ会えるやつがいい、お前のこと嫌いになったわけじゃない。
でも、もうだめだ』
 十年も前のことだ。もう付き合っている人がいると打ち明けられて菊は電話口で
みっともなく泣いて散々に罵ってしまいたいのを懸命に押さえ込んで、お幸せにと
言うのが精一杯だった。土台無理な話だったのだ。誰がどう見てもギルベルトは
かっこいい。うるさくて俺様で浅はかで口も柄も悪くてどうしようもないところもある
けれど、根はとても優しい。それに寂しがり屋で動物映画で泣いてしまう可愛い
面もあって、どこもかしこも好きなところばかりで、だから余計に自分なんかとは
釣り合わない。相応しくない。ギルベルトはやっと正しい道を選んだのだと言い
聞かせて搾り出した台詞だった。電話を切ってからすぐに菊は着信拒否を設定
して二度と連絡を取らなかった。その夜に熱を出して一週間大学を休み、ひと月
ふた月は食欲が湧かずにひどく痩せた時期もある。卒業したら地元に帰る約束を
破って就職を決めて、仕事が忙しいと言い訳しては実家に帰るのも極力避けて、
ギルベルトと遭遇する可能性を潰し続けた。ギルベルトが田舎を出ていたことも
知らないままこうして十年が経って今更。
「実は、俺も今向こうに住んでる。別れて半年ぐらいしてそっちの会社に入った。
たぶんお前の会社も知ってる」
 抱きすくめられると慣れない香水と懐かしい体臭が鼻腔から思考を溶かして、
うまく物事を考えられないぽんこつの脳でぼんやりギルベルトの声を拾いあげて
いる。言葉の意味を理解するには時間が必要だった。
「会えなくて寂しくて逃げたのは俺が悪い、若かったせいにはしない。俺が悪い。
でもだめだ、お前じゃないと」
 そんな都合いいこと言って、いつかまたギルベルトは自分を捨てるくせに。結婚
して子供も生まれて家庭を作って、何事もなかったみたいな顔で『お前もそろそろ
結婚しないとな』と説教して幸せそうに笑うくせに。そして自分も何事もなかった
みたいな顔で『したいのは山々なんですけどなかなかいい人が見つからなくて』
なんて白々しい嘘をつくのだ。そんな惨めな未来は真っ平だ。こんなことになるの
なら一目会いたいなんて思わければよかった。死ぬまでずっとギルベルトのこと
なんか忘れたふりをして寂しくひとりで生きていけばよかった。
「なあ、頼むよ、頼むから、そばにいさせてくれよ…菊」
 耳元に直接流し込まれる馴染んだ呼び方も症状を重くする一方だ。年も大台に
乗って、親族から見合いの話を勧められて、年々無理が利かなくなって、同僚も
みんな次々に幸せをつかんでいくのに、どうして自分だけが不毛で青臭い、一度
踏みにじられた恋に振り回されなきゃいけないのか。バカみたいだ、バカみたい
なのに、どうしてギルベルトを突き放せないのか。菊にはわからない。
「あなたなんか信じられない、あなたなんて、あなたなんて」
 あのとき飲み込んだ罵倒を吐き出しながら菊はギルベルトの背中に手を回して
もう二度と離れないようにきつくきつくしがみついた。泣きながらギル、ギルと繰り
返し名前を呼ぶと今度は己の内側から何もかもが溶かされていく。あとに残った
のは十年、それより前から少しも成長しない、愚かしいほどにまっすぐで単純な
感情のみだった。





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