※女体化注意






「 ネバーランドに背を向けて 」



 日没を迎えて人通りも少なくなると、小さな商店ばかり並ぶ市場はぼつぼつ店じまいをはじめた。
簡単な片づけを済ませて明日の予定を店主に確認し、広場を抜けて帰途につく。市民街から下町へ
続く長い階段をおりたあたりから、いつになく賑やかな声が聞こえてくる。フレンは何かあったのかと
騒ぎの中心である箒星から出てきた八百屋の主人に尋ねた。けれどかなりの酒が入っているようで
回答は要領を得ない。しかしどうやら不安がるようなことではないらしい。時折どっと笑い声が漏れ、
男もしきりにめでたい、めでたいと寝言半分に繰り返している。いったい何があったのだろうと箒星に
足を向けた。
 箒星は普段にも増して大盛況で、景気よく酒や料理が振る舞われている。フレンの姿を見止めた
箒星の女将は酔っ払いを椅子から放り出して豪快に空きを作ると、そこに座るよう言った。フレンの
好きなミートローフやら切り分けたばかりの大きな鳥のもも肉やら、滅多には味わえないご馳走が
次々と眼前に並ぶ。今日は何かお祝い事があるの?フレンの問いに女将はとびっきりめでたいこと
だよと顎をしゃくった。その方向に誰か座っている。店のどこにいても見えるような特等席に真っ白な
ワンピースを着た女の子がひとり。
 何故だろうか、心臓が早鐘を打っている。スカートの裾を膝の上でぎゅっと押さえつける日焼けを
知らない白い手。うつむいたその横顔を隠す艶やかな長い黒髪。どこで聞きつけたのか入れ替わり
立ち代わりやって来る女性陣から仲間入りを祝福する言葉を贈られ、優しく髪を撫ぜられても彼女は
ぐっとくちびるを噛み、下を向いている。浮かれる周囲と別世界にいるように、暗く重い空気が彼女を
包んでいた。
 そしてフレンはこのとき、親友との約束が己の内で静かに息絶えていくのを感じたのだった。

 軽業師のように軽快な身のこなしと、持ち手の左右を問わない鮮やかな剣さばきで相手を翻弄し、
不意を打っては素早く間合いの内側へ踏み込んでくる。あらかじめ刃を潰した訓練用の剣であっても
当たれば相応に痛み、全治十日程度の打撲ぐらいは覚悟しないといけない。それを好き好んで受け
たがる変人はそうそういないので防御体勢を取ろうとすると、今度はそこに隙を見出して別の攻撃に
転じるのが彼女の常套手段だ。とても騎士の戦いぶりとは思えない荒っぽい拳や蹴りが防御の甘い
箇所を襲う。この時点ですでに勝負はほぼ決まったようなものだった。王手の寸前で動きが止まり、
俺の勝ちでいいよな?と男言葉の少女の声が訓練場に響く。反論はなかった。
 勝利は勝利だ。けれど教官の評価は今ひとつである。騎士の戦いは見世物ではないし、魔物との
戦闘ともなればなおのこと、なりふり構ってなどいられない。それでも騎士は常に一定の品位を保つ
べき、というのが教官の信念である。これまで再三注意を受けていながらも、彼女は懲りるどころか
勝ったんだから細けえことは気にすんなよ、と教官を目の前にしてもこの口の聞きようだ。虫の居所
次第で平民の見習いは簡単にクビが飛ぶ。それがいまだ無事であるのは、ひとえに彼女が優れた
剣の才能を秘めるがためだ。女のくせにと恨み言も許さぬ天賦の才が彼女にはある。
 しかしフレンに限れば話は別で、全体重を乗せた重い一撃を利き腕ではないほうに持つ盾で軽々
受け止め、あまつさえまだ宙にある体をはるか後方へ弾き飛ばしてしまうことすらあった。バランスを
崩されて咄嗟に受身をとることさえままならない。地を転がってようやく止まった頬には薄っすら血が
滲み、乱暴に拭った手の下から馬鹿力め、と小さく悪態を吐いていた。剣を支えに片膝をついた低い
視界に勝者の足取りが悠々と近づいてくる。フレンは手を貸すでもなく怪我を心配するでもなく、鋭い
切っ先を喉に突きつけて求める。降参は?どちらが勝者かなど誰の目にも明らかであるのに、彼は
毎度彼女の口から敗北宣言を聞きたがった。
「俺の…負けだ」
 苦々しく認めるや否や、フレンは途端興味を失ったように踵を返す。見習い騎士たちの模擬戦闘は
大体いつもこうして異質な空気を残して終わる。
 この光景を目にした者は、彼は精神に何か問題があるのでは?下町育ちの生意気な小娘を追い
出そうとしているのでは?等々、それぞれ勝手な憶測を囁きあい、フラれた腹いせだと根も葉もない
噂が流れもした。だが肝心のフレンが何も語らないので真相は謎のまま、相変わらず彼女に対して
厳しいというより冷血な態度を貫く。下世話な好奇心抜きにお節介を焼きたがる者は皆無に近い。
 どうして彼女をあんな目で見るんだ?
 唯一真っ向から尋ねたのは同室のアシェットである。ただ宿舎で同室であるというだけでなく、同じ
庶民の出で、お調子者のきらいもあるが陽気で話上手で人好きのする彼は、しばしば孤立しがちな
フレンを入団当初から何くれとなく気にかけていて、フレンにとっても気兼ねなく付き合うことのできる
貴重な友人となっていた。そのアシェットから投げかけられた質問なら真剣に応じたいのが当然では
あるのだが、あんな目って?と当の本人ときたらまったく心当たりがないとばかりに両目を瞬かせる
始末なのだ。自覚がないというのは何より厄介だ。
「お前ら幼馴染なんだろう?あんな目、まるで」
「まるで?」
「憎んでいるみたいだ」
 彼女を見るフレンの目はいつもぞっとするぐらい冷たく濁っている。もし憎悪に色があるとすれば、
あれがきっとそうなのだと確信するほどに。思いがけないアシェットの指摘に、フレンは押し黙った。
そもそも彼女と親しい素振りは見せていないはずなのに、どうして幼馴染だと知っているのだろうか。
不思議に思いながらアシェットを見返した。別人の横顔を隠さない友人を臆することなく、まっすぐに
見据える真摯なまなざし。アシェットの両目は澄んでいて、フレンがとうの昔に失ってしまったものを
持っていた。おおかた彼女に好意を持ち、下町まで足を運んで自分たちのことを聞いてきたに違い
ない。肺の奥に溜まったものを吐き出すように、フレンは長々と息を吐く。
「実際憎いんだから、しょうがないじゃないか」
 老若男女誰に聞いてもフレンの評判はすこぶる良い。例外があるとするなら負け犬のやっかみか
何かだろう。誰に対しても分け隔てなく誠実で優しく一生懸命、それでいて嫌味もなく、善良な人間の
手本のような男だ。その彼がよくこんな酷薄な台詞を吐けるものだと感心するほど底冷えのする声を
発する。この場に彼女はいなくともフレンは彼女を剣を向けるときと同じ、嵐のあとの濁流をそのまま
結晶化したような嫌な目をしている。彼女が何をしたというんだとアシェットは詰め寄った。約束どおり
騎士になっただけじゃないか。だが彼にとってそれは些細な事柄でしかない。本質的な問題はもっと
根深いところにある。
 昔、ユーリは"ユーリ"だった。彼でも彼女でもなく、騎士でも下町の住人でもない。物心つく前から
ずっと当たり前のようにそばにいて、親友であったり幼馴染であったりもした。それがあるとき突然、
ユーリはフレンとは違う生き物になったのだ。何の前触れもなく、何の断りもなく、変わって しまった。
フレンはそれがどうしても許せない。今でも。
 いったい誰が悪いのか?誰も悪くなどない。誰しも子供のままでいられない。無知な子供のままで
いられたら、無垢な子供のままでいられたら、きっとフレンは彼女を憎んだりはしなかった。 ユーリが
子供のままであったなら、女になどならなかったなら、フレンは彼女を憎まず済んだ。
 かといって女が騎士になってはいけない法などない。少ないながら騎士団には女性の騎士もいる。
魔術で補助を担う女性騎士もいれば、小隊を率いる勇ましい女性騎士もいる。けれどフレンにとって
そのような事実はまったく関係のない話だ。男は女を守らねばならない。たとえ世界最高の使い手で
あったとしても、男は女の前に立って戦わなければならない。それがフレンの第一の法、隣に並んで
共に戦うなどもってのほかだった。だのに、ユーリはフレンの法を知りながら女になった。幼心が作り
上げた砂の城を踏みにじられたような気がした。
 もちろん、本人が望んでそうなったとは限らない。幼いフレンが知らなかっただけで、この世に生を
受けたその瞬間からユーリは女だったのだろう。如何に目を背けようといずれ明確な差異が白日の
下に晒されてしまう。それがあの日、唐突に訪れてしまった。もはや対等なままではいられない。もう
隣に立ってはいけないのだ。女のユーリが騎士になる、それは許しがたい。共に騎士になる誓いを
破る、それはいっそう許しがたい。この矛盾と憤りをどこにぶつけるべきか、どうやって処理するべき
なのか。フレンにはまだ、見つからない。

 脳裏に浮かぶ、あの日くちびるを噛んでいた少女。彼女は近い将来、フレンが苦しむだろうことに
気づいていた。あのときもし彼女が花が咲くように笑い、恥じらいながらもフレンを迎えていたなら、
素直に祝福して、ひょっとしたら彼女を守り、支え、生涯を共に歩む唯一の存在になりたいと新たな
誓いを立てていたかもしれない。けれども彼女は平凡な花嫁でなく騎士になることを選んだ。それが
憎しみのはじまりだった。
 ユーリが思いどおりにならないがための八つ当たりだと責められても仕方ないことだと、フレン自身
重々承知している。けれど戦いのさなか、彼女の姿が目に入ると全身の血が煮えたぎるように騒ぎ
だすのだ。戦いの場に彼女がいてはならない。どんな手段を用いても遠ざけなければならない。少し
ぐらい痛い思いをさせるとしてもやむを得ない。手遅れになってからでは遅いのだ。何としても騎士を
辞めさせなければならない。騎士である限り、危険は常に付きまとう。彼女は女性として当たり前の
幸せを手に入れなければならない。何故なら彼女はフレンにとって最も大切な女性なのだから。
 フレンは夜毎、彼女の夢を見る。日焼けを知らない白い肌、艶やかな長い黒髪。女性らしい曲線は
月日を経るごとにめりはりを増し、騎士団の門を叩く頃にはすでに帝都では知らぬ者のない箒星の
看板娘だった。彼女と交際を望む男は星の数ほどいるはず。その末席を汚す、卑しくも偽らざる心で
生きるもうひとりの己の姿。そして朝を迎えるたび、フレンの憎しみは増していく。





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