「 ネメアにて君を待つ 」



 古の時代より舞い戻った災厄が滅んで早数ヶ月。生活基盤の再建に追われる人々にとって、
魔物の存在は最も身近な障壁であり、脅威でもあった。結界魔導器に代わり各都市を守るのは
騎士団の役目ながら、その騎士団も武醒魔導器を失った影響は否めない現状においてギルド
との協力はもはや欠かせない。何でも屋に近い滑り出しを切った凛々の明星に舞い込む依頼も
今では魔物の討伐や護衛が多い。闘技場で散々名を売った成果かユニオンを介さない直接の
指名もたびたびだ。時には騎士団長直々に協力要請なんてこともあり、少数精鋭を誇る三人と
一匹の小さなギルドは常に大忙しだった。ドン亡きあとの天を射る矢、ユニオン内の混乱終結に
見通しがつき次第正式に籍を移すつもりらしいレイヴンが加われば戦力も増え、いくらか余裕が
生まれるだろうと淡い期待を抱いてはいるが、今のところ期待はあくまで希望でしかない。
 そんな状況下、ギルドと無関係に別行動を取らなければならない足枷は仲間もよく知る親友の
助力を兼ねているとはいえ、何だかなあ…の一言では表しきれない感情をユーリにもたらした。
心因性、外因性、両方を端に発す息苦しいかんじ。次いで、もしかすると受け取りを拒んだことに
対する嫌がらせなんじゃねえのといった疑念。つまるところユーリはただいま膨大な荷物の中に
いつの間にやら捻じ込んであった聖騎士なる装束を身につけ、帝都ザーフィアス城内を歩いて
いた。重い足取りで目指すは長き空席状態を経て、このたびようや新たな主を得た帝国皇帝の
執務室だ。「着いたらまず例の服に着替えてここを訪ねてきてくださいね」とはまだ少年といって
差し支えない若き皇帝陛下のありがたいお言葉である。もちろんそれは個人的な要望であって
皇帝としての命令ではないが、ユーリには彼の柔和な笑顔に逆らえない理由があった。発端は
星喰みを倒した直後まで遡る。

 内密な話がしたいと日時と場所が記されたメモをは記憶したのち、きちんと焼却しておいた。
万が一、ということもあり得る。呼び出し主に累が及ぶ可能性はできる限り潰しておきたかった。
向こうも向こうで気遣ってくれたらしく、侵入経路はご丁寧に人払いを済ませてある。いつぞやと
比べて順調な道のりときたら日常の散歩コースにしてもいいぐらいだ。こんなザル警備で大丈夫
なのかと責任者たる親友の顔が脳裏にちらついていっそ不安を覚える。そうして何事もなく辿り
着いた部屋は近いうちに戴冠式を迎える少年の私室だった。燭台の心もとない明かりの下には
規模は慎ましくも不似合いに豪華な茶会の準備が整えてある。ユーリは何考えてんだこいつと
心底呆れたが、当の本人は甘いものがお好きだと伺いましたのでと柳に風とばかりににこにこ
笑っていた。
 こういう手合いはどうも苦手だと出会ったばかりのエステリーゼを思い出す。あるいは皇帝家の
血がそうさせているのだろうか、だとすればそこらの貴族とは別の意味でたちが悪い。内密の話
とやらをさっさと済ませて早急に退散したい。が、並ぶ菓子に罪はない。渋々ヨーデル手ずから
淹れた紅茶をご馳走になりながら行儀悪く一口サイズの焼き菓子を口に放り、で?話って?と
催促すると天然殿下はそうでした、話があるからいらしたんでしたよねとつい今しがた気づいた
ように言う。話があるのはそっちじゃねえのかよとは当然の苛立ちだ。けれど腹心の部下とその
友人が抱える事情を承知しているならば、話があるのはユーリのほうだと踏んだ推測は正しい。
しかもこうして絶好の機会までお膳立てしてくれて至れり尽くせりではないか。知謀家かつ温情
主義。権力者という生き物をまるで信用していなかったユーリにもほんの少し光明が垣間見え、
同時にあの言葉が耳の奥に蘇る。"将来が見たかった"。目には見えぬ引っかき傷を遺した男が
ユーリに何を見たのか、今となっては知る術がない。飲んでいた紅茶が苦く感じられて別の菓子
にも手を伸ばす。それでも口の中は苦いままだ。
「自首、したいんだけど」
 彼がどこまで知っているのか量りかねたので様子見がてら切り出した。ヨーデルの反応は実に
平坦で、上品に紅茶を啜っていたカップを置いて困りますねと嘆息するのみだった。ただ声音は
打って変わって硬く冷たい。
「困ります、そのようなことをされては」
 ユーリは長々とため息を吐いた。己の為したことについてけじめをつけたいだけなのに、それ
すら思うようにならない現実がつくづく嫌になる。ユーリのしたことが明るみになれば貴族階級の
人間、特に評議員の態度の硬化は必至だ。擁護しようものなら賛同者と見なされてもおかしくは
ない。民衆を味方につければかえって軋轢を生む。世界を救った英雄だと赦免すれば評議会の
立場を利用したラゴウと同じ穴のムジナに成り下がる。ユーリがそんな薄汚い救済をおとなしく
受け入れるはずもなく、かといってこのまま知らぬふりを貫こうとすればおそらく極刑は免れない。
そうなると自分にも同等の処分をと言い出しかねない人物に複数心当たりがある。ユーリを
含めて全員がこれからはじまる新しい時代には必要不可欠な人間だ。少なくともヨーデルには
そう思えた。となれば真相を闇に葬る代償として解消されることのない罪の意識に耐えてもらう
ほうが何かと都合がいい。何よりユーリ・ローウェルという男にとって、己が信念にもとる行為を
強いられる鬱屈は安易な死よりよほど耐えがたい苦痛なのだ。
 ヨーデルの耳にぎり、と歯噛みする音が聞こえた。きつく握り締められた両の拳はぶるぶると
震えるほどに力が込められている。感情を伴わない淡々としたヨーデルの説明はいちいち理に
かなう。口には自信があったのにその口を挟む余地が見当たらない。それが歯痒い。
「生きて償うことを考えなさい、あなたにしかできない方法があるのでは?」
 およそ年下とは思えない堂々たる物言い、勝てる気がしない。どうりで評議会の爺どもが懐柔
できないわけだ、俺じゃ逆立ちしても無理だっつの。心中で毒づきながらも早々に未来の賢帝へ
白旗を揚げたユーリは不満の矛先を菓子の山に戻した。味も見栄えも大変素晴らしい、けれど
ひどく胸糞悪い。消化不良を起こしそうだった。俺にしかできないこと…そんなモンあんのかね。
もしゃもしゃと頬を膨らまして甘味処理機と化したユーリがぽつりと零す。
 窓の下には放射状に広がる帝都ザーフィアス。その最も外周部分では、人々の暮らしを守る
ために騎士団が寝ずの警備に当たっている。帝都だけではない、騎士団の力が及ばぬ町では
ギルドがその役を負い、あるいは双方が協力する仕組みだ。下町の出で異例の出世を遂げた
若き騎士団長は心を許す親友にぼやいたことがある。今更君に戻ってきてくれなんて言わない
けど、もしもユーリが二人いたらひとりは確実に騎士団に連れ戻すよ。何だそれ忙しすぎて相当
きてんな、ハゲねえといいけどとそのときは呆れ気味に思ったものだが、半分は無理でも二割、
いや三割ぐらいは預けてやってもいいかもしれない。
「非常勤の剣術指南なんてどうでしょう?地上最強の黒獅子さん」
 天然殿下の優しい口調を取り戻したヨーデルは、相変わらずにこにこと微笑みながらカップに
口をつけていた。

 まさか君のほうから俺に手伝えることあるかなんてそんな殊勝な台詞を聞ける日が来るとは夢
にも思わなかったから正直耳がおかしくなったのかと思ったよもしかして熱でもあるんじゃないの
それともどこか打ったのかなじゃなかったらそろそろ槍が降るのかなそれなら市民を屋内に避難
させなければいや待てよ今度こそ世界の終わりが来るのかも、と一息に捲くし立てた幼馴染に
ユーリは盛大に口をひん曲げた。らしくないのは自身でも重々承知している。それでも腹は立つ
ものだ。以前ならその場で回れ右していたに違いない、やり場のない憤りを堪えて平静を装った
のはひとえに天然殿下から腹黒陛下に進化しつつある人物のせいだ。
 よかったですねフレン、急務である騎士団の戦力強化に彼が協力を仰げるとなればこれ以上
心強い人物は云々、聖騎士に相応しいと見込んだ私としても喜ばしい限り云々と、部下を労うと
同時にさりげなく退路を断っていくこの辣腕、末恐ろしい。形式ばかりの謁見と委任契約等々の
面倒事を手早く済ませて練兵場へと移動する道すがら、何故かついてくるヨーデルが難しい顔を
していることに気がついた。まだ何かあんのかよと言葉遣いには厳しい幼馴染に聞こえないよう
慎重に小声で尋ねると、助けた王子様に興味を持ってくれないすげない人魚姫に対してはどの
ようなアプローチが効果的か、次はどんな口説き文句を用いるべきかなど、ユーリにはまったく
理解不能かつ、専門外の問題について悩んでいるようだったので、やっぱり皇帝陛下ともなると
忙しくて大変なんだなハゲねえといいけどなどと馬の尻尾を揺らして首を傾げる他なかった。





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