「 緑成す長い友達 」



 たとえば容赦のない強風が真正面から吹きつけたとき。たとえば誰かの言動が何かしら彼の
心の琴線に触れてさっと後ろを振り返ったとき。たとえば曲芸めいた独特の剣技でぐるんぐるん
回って剣と足を交互に繰り出しているとき。長い黒髪をさんざっぱら乱しておきながら顔にかかる
邪魔な一房を首を強く振る勢いでぺいっと横に放れば元通りの髪型に戻ってしまう、あの見事な
髪質。何か特別なケアをしているおかげではないことを、人間としては最初の旅の仲間である
エステリーゼはちゃんと知っている。
 慌しく旅立つ羽目になったユーリはほとんど手ぶらに近かったにも拘らず、それから立ち寄った
デイドン砦、ハルル、アスピオ、カプワ・ノール、カプワ・トリム以下略で最低限の洗面用具以外、
あれこれ生活用品を買い求めている姿など見ていない。実際に、カロルが預かる荷物の中にも
それらしき道具はひとつもなかった。ラピードの手入れ道具なら充実しているのに。そもそも彼は
身だしなみを整えるなんて面倒事を好まぬ性質なのだから、端から存在するはずもない。入浴
だってどこをどう洗っているのやら毎度カラスの行水で、濡れた髪も乾かさないで寝てしまうのは
毎度のこと、世界中に散らばる宿に必ずアメニティが揃っているとは限らないので仲間はみんな
それぞれ好みや体質に合わせた入浴セットを用意しているが、ユーリに至ってはごくごく平凡な
石鹸とタオルのみ。髪と頭皮を洗うのにシャンプーすら使っていないという有様。恐るべし主人公
補正、これを女の敵と言わずして何と言う。全世界の乙女を代表してエステリーゼが当人にその
不満をぶつけてみればそんなこと俺に言われたってなあ、とさしもの主人公も困り顔だ。無理も
ない、ユーリ本人にまったく非はないのだから。そんな幼馴染に助け舟を出したのは物心つく前
からずっと彼の暮らしぶりを間近で見、自身もまた体験してきたフレンだった。
「まあ、昔はシャンプーなんてとてもじゃないけど買う余裕なかったもんね」
 幼少時代の苦労を思い出したのか人好きのする笑顔には苦渋が滲む。はて、シャンプーとは
そんなにも高価だったろうか?と思うのは由緒正しき血筋で籠の鳥の不自由な生活ながらも、
物質的な面では不自由をしたためしのないエステリーゼばかりではないはず。しかし、そこらの
雑貨店で一番安いシャンプーより、ユーリの愛用する手洗い場などでよく見かける赤いネットに
包まれた黄色い楕円形の石鹸のほうがはるかに安いこともまた事実だ。じゃあフレンも石鹸派
なんです?と尋ねると、さすがに今は市販のシャンプーを使っている、とのこと。騎士団の共同
浴場に置いてあるものと同じ安物ではあるけれど、ユーリの石鹸と比べ物にならないのは明白
である。だってあれは入浴にもどうぞと書いてあっても髪を洗うようにはできていない。長い友と
書いて髪と成るそれはある意味人体で最もデリケートなのだ。
 フレンはこの際だから石鹸から卒業したらどうだろうと切り出した。お金のなかったあの頃なら
仕方がないとしても、今はギルドの報酬に加えて自主訓練と称して定期的に闘技場へ通って、
それなりの稼ぎがある。なおかつしっかり者のカロルの躾も行き届き、計画的にお金を使うことも
少しずつ覚えたようで、近頃はやっべ宿に泊る金足りねえからちょっと狩ってくる!という言葉も
聞かれない。ちなみに以前の金欠の原因は宿より先に立ち寄る幸福の市場のせいだ。どうして
いちいち食材を補給しなければならないんだ、特にスイーツ系の材料、ミルク・卵・いちごは常に
必ず99個持っていなければ落ち着かない理由はなんだ、何かトラウマでもあるのか?といった
質問にユーリは答える術がなく沈黙を守る。キウイ…と何やら聞こえた気もするが、僕は誰よりも
君を知っていると公言して憚らないフレンにもユーリの真意を理解することができない。
 ともかく、ギルドは団体職員というのか何というのか職業不詳ながらも無収入ではなくなったの
だからシャンプーぐらい買ったっていいとフレンは思うのだ。そうですよユーリ、せっかくきれいな
髪なんですから!とついさっきまでユーリの尋常ではない髪質に乙女として憤慨していたはずの
エステリーゼはいつのまにかフレン側についている。別にユーリだってあんな贅沢品は死ぬまで
使うもんかと謎の意固地に陥っているわけではない。たまに安売りしているのを見てちょうどいい
機会だし試してみようかなと思ったこともまったくないわけではなかった。ただ種類がありすぎて
どれを買えばいいのか悩んでいるうちにだんだんどうでもよくなってきたのだった。
 どうせそんなことだろうと思ったよと呆れ笑いのフレンをよそに、エステリーゼの目がきらりんと
輝く。でしたら今から買いに行きませんか?ね、ユーリ!と袖口を掴んでくいくいとねだる仕草が
無邪気で可愛らしい。うわあなんか面倒なことになってきたアアア!とは思いつつ、コレ断れる
やつなんていんの?とばかりに暴走姫のお目付け役たる騎士殿にちらりアイコンタクト。すると、
まるで他人事のフレンは肩を竦ませて、いいんじゃない?行ってきたら?と無音の返事だ。が、
自分ひとり苦労してなるものかと当然お前も行くよな?とユーリは親友を巻き添えにした。えっ、
僕も?と鳩が豆鉄砲食らった顔に胸がすく。実はこの下町美形コンビ、女性との買い物にあまり
いい思い出がない。十代半ばに差し掛かったあたりから見栄えがいいのが災いして"何か奢って
あげるから買い物付き合ってよ"の言葉に釣られた苦い経験があり、本能が自動的に警告音を
発するのだ。女の買い物はクソ長いぞ、と。だが、時すでに遅し。もちろんフレンも一緒です!と
上機嫌で微笑むエステリーゼの中で、この面子で買い物に行くことはもはや決定事項となって
いたのだった。
 案の定、たかだかシャンプーを選ぶだけの買い物はなかなか終わらない。俺よくわかんねえし
エステルが選んでくれと丸投げしたのもまずかった。ひとたび街を出てしまうと次はいつまともに
入浴できるかわからない、強い日光や乾燥に曝される機会も多く、野営が続けば休息や睡眠も
十分とは言えない。なので洗浄効果に優れ、ダメージケアにも特化したシャンプーが望ましい。
そうなるとかなり絞られてきた。残る問題はどの香りにするかということだ。一口にフローラル系
といってもいろいろなタイプがあり、たとえばどこかで見覚えのあるエステリーゼがうふふあはは
と駆け回っていそうな可憐なお花畑から、臍まで見えそうなアドリブ大魔王がいつもより多めに
フェロモン放出しておりますとばかりにしどけなく寝転がって手招きしていそうな噎せ返る濃密な
薔薇まで、与える印象はさまざま。やたら陽気で甘ったるいココナッツだとか、南国の果物の汁を
煮詰めたようなトロピカルだとか、成人男性の髪からふんわり香るのはどうかという代物は除外
するとして、何かもっとユーリとフレンにぴったり合うのは…えーとえーとうーんうーん…と目移り
するエステリーゼをひとまずフレンに預けて店内をぶらついていたユーリがふと、鼻が記憶して
いた香りに足を止める。それはすうっと胸の奥まで落ち着くしっとりした雰囲気のグリーンノート、
最近売れ筋の男性向けシャンプーらしい。これがいいなと終わる気配の見えぬ逡巡に終止符を
打つべく持ち帰ると、サンプルの香りを嗅いだエステリーゼの表情が曇った。
「あ…これ、レイヴンが使ってるシャンプーじゃないです?」
 なるほど、言われてみればそうかもしれない。ちょっとお高いのがネックだが、べらぼうに高い
わけではなく、あれでいて洒落者のレイヴンも使っているほどの品質ともなればエステリーゼの
望む条件と多少食い違っても納得してくれる、そうすればこの長い長いミッションから解放される
だろう、そう思ったのに。
「あの…ユーリも気になるんです?これ育毛シャンプーって書いてありますけど…」
 嗚呼、とユーリは思わず空を仰いだ。おっさん、もう髪引っ詰めるのやめにしようぜ、あれ絶対
頭皮によくねえわ、と。嗚呼、と次いでフレンも空を仰ぐ。ストレスも多かったでしょうが、御年も
御年ですし、ええ、無理からぬことですよね、と。禿げ散らかしたレイヴン像を勝手に思い描き、
勝手に消耗してしまった二人は100%オーガニック、頭から丸ごと洗えて歯磨きにまで使えると
いう体に優しい石鹸とやらをさっさと購入し、まだショッピングし足りないエステリーゼをどうにか
宥めて帰還を促すと共に、これからはもっとレイヴンに優しく丁寧に接しようと固く心に決めた。
その後、ちょくちょく食卓にのぼる鯖味噌を喜ぶレイヴンはその裏に隠された憐憫の情など知る
由もない。





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