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近づいてくるのを何だろうと不思議に思いながらも放っておいたのだが、その 正体を知って菊は驚きに顔を強張らせた。ベールヴァルドは一体何をしている のか、廊下の壁から壁へと衝突しながら突き進んで来ているのだ。会議も終わり ほとんどの人が引き上げたフロアは人気がなく誰に遠慮することなく思う存分 壁にぶち当たることができるとはいえ、何を目的にそんなことをしているのかは さっぱりわからずただ首をかしげているとその顔にいつもの眼鏡が見当たらない ことに気がついた。もしかして、と声をかけると常よりさらに険しい、知り合いで なければ声なんてかけようとも思わないレベルの視線が菊のほうに向けられた。 だが一向に目があったかんじはしない。やはりよく見えていないのだと確信して 改めて声をかけ、眼鏡はどうなさったんですかと尋ねれば片方レンズの欠けた フレームを手に割れだ、と至極わかりやすい答えがかえってきた。幸いスペアは 部屋にあるとのことでまずは一安心したけれどこれほどひどい近視であるなら 日常生活にも支障が出そうだとその苦労がしのばれる。現に、触れそうなほど 近くにいても相手に今ひとつ確証が持てないのだろう菊だが?と強面で確認して くるぐらいなのでそれはかなり深刻なものだと言えそうだ。そうです菊ですよと 認めるとベールヴァルドの手がこちらに伸びてきて長身の彼からすれば随分と 低い位置にある菊の頭を子供にするようにぽんぽんと叩いて何やらああ、んだ、 菊だと納得いった様子にこれはこれで菊はわずかに腹を立てたがおそらくは わかりづらい彼の愛情表現のひとつなので表には出さない。菊は小さな怒りを 溜め込むタイプだ。 「お困りなら部屋まで送って差し上げましょうか」 壁にぶつけたらしいやや赤くなった額をさするベールヴァルドを放っておくことも できないのでそう提案するとベールヴァルドは変化の乏しい彼なりにではあるが それなりに明るい表情で頷き嬉しそうにした。大柄な体格に相応しい大きな手を 握り、ついてきてくださいねと言うと強く握り返される。そうして二人で歩き出して まもなくざわめきが響きだして人の多いロビーに出た。大の男二人、と言っても 菊がそう見えるかどうかは甚だ疑問ではあるが、スーツの男二人が手をつないで 歩く姿は多少奇妙であったのかもしない。慣れない視線のなか足早に歩いて いると不躾な輩はベールヴァルドの睨みを受けてすぐにどこかへ行ってしまった。 迫力のある眼力というのはまったくもって効果絶大だ。もっとも、今その眼力に 他意はなく、単にそこにあるものは何か知りたいだけなのだけれど単なる通行人 には知る由もない。知っているはずの国々も、たとえば菊を夕食に誘いに来た アーサーなどもその無駄に有り余る迫力の前に敗れ去っていった。幼子の手を 引くような懐かしさと百戦錬磨のボディーガードを引き連れているような安心感が ない交ぜになり、相反する印象が少し可笑しくもあるがけして嫌なわけではなく こっそりと笑う。しかしその道のりもすぐに終わり、ベールヴァルドの言った番号の 部屋はもう目の前だ。つきましたよ、と手を離せば思いのほか温かだったベール ヴァルドのぬくもりが皮膚の下にいつまでも残るような気さえする。 「ありがどさま」 名残惜しいような気持ちを努めて隠し、あっさりと引っ込めてそれではと別れを 告げた去り際、待っでと引き止められ、再び菊の手を強く握りベールヴァルドは さらに片方の手をぎゅっと重ねて包み込んでもう一度丁寧にありがどさまと言う。 こんなことをされたらずっと消えなくなってしまうではないかと菊は焦って顔を赤く しながら何とか平静を保ち、どういたしましてと笑った。その途端見慣れない、 眼鏡のない彼の表情が柔らかく緩むのはどうにも心臓に悪い。みっともなく うろたえる自分を見られる前に菊は逃げるようにその場から離れるしかなかった。 菊は歩きながら握られた手をじっと見る。温かい、そして頼もしい手だったと思い 返し、ひとり顔を赤らめる。 |