「 君は水面の黒い花 」



 それは十年も昔のことだった。女子供の行くものだと端から馬鹿にしていた
夏祭りなんぞに野郎の集まりなんて不毛な面子で繰り出したのが運の尽きだ。
誰が言い出したのかも思い出せないが、金魚すくいで一番金魚獲ったやつが
優勝などと言い出したものだから俺まで参加する羽目になり、嫌な予感がすると
思ったら案の定俺だけが一匹もすくえないまま終わった。小遣いを使い果たして
途方に暮れる俺に見かねた店のおっちゃんが売り物にならない金魚ならあげるよ
と言う。それは体のほとんどが黒い鱗に覆われたフナと同じ尾の地味な金魚で
サイズも小さい。別に俺はどうしても金魚が欲しかったわけじゃない。もちろん
断るつもりだった。けれど出荷の選別で間違って混入したものだろうから俺が
引き取らなければそのまま処分されると聞いては渋々受け取るしかなかった。
その頃からろくでもない連中とつるんでた俺に比べて兄や弟は優秀で周囲の
大人たちにも将来を期待されていて、売り物にならないと見捨てられたこいつに
何か仲間意識みたいなものを感じてしまったのかもしれない。それが菊だった。
わざわざ俺が名づけたわけじゃない。金魚が勝手に名乗ったのだ。と、言うと
兄弟は揃いも揃って俺の熱を測ったり薬を飲ませたり医者に連れて行こうとした
のだが事実そうなのだから仕方ない。水槽なんて気の利いたものはなかった
のでビニール袋からコップに移したところ、ちょっと!こんな狭いところで私を飼う
つもりなんですか?冗談じゃないですよ!と金魚が偉そうにのたまったのだ。
水道水を直接使うだなんてあなた私を早死にさせる気なんですか!鬼!といった
調子でどこからかはっきり聞こえてくる声に俺だって最初は頭がおかしくなった
のかと思ったぐらいだ。別室のルーイに軽く殴ってもらって一応夢ではないことを
確かめてからもその声は聞こえる。どうやら夢ではないらしい。そうして俺は金魚
直々に正しい飼い方のレクチャーを受けて翌日早速ホームセンターに走ることに
なった。きちんと水槽一式を揃えてもやれこの餌は好みじゃないだのやれこの
水草は好みじゃないだのと菊はわがまま言いたい放題で確かに腹は立ったが
一度拾った命をみすみす捨てるのも癪で結局は臨み通りにしてやった。ようやく
納得いく環境になったとき、これで十年は生きられますね、ありがとうギルと菊は
のんきに礼なんか言いやがったのだ。そんなの俺が途中で飽きて世話を放棄
したら終わりだろうにそんな馬鹿みたいに、いや所詮は金魚の頭だ、実際馬鹿
なんだろうけど十年先まで俺を信じてるなんてほんと馬鹿みたいだ。そのせいで
俺は十年ものあいだ甲斐甲斐しく世話を続けることになったではないか。幸い
菊は特に問題なく水槽の中で生き続け、友達のいない俺にはいい話し相手に
なってくれた。しかし十年も飼い続けたという慢心がいけなかったんだろう。無事
就職し、実家を出た初めての夏のこと。俺は真夏だというのにカーテンを閉めて
いくのを忘れてしまったのだ。真夏の窓際は非常に高温になる。高温になった
水は酸素が溶け込みにくく、酸欠で死んでしまうことがあるのだと菊から聞いて
いた。急ぎ家に戻ろうとするが学生のときとは話が違う。当然金魚の用ごときで
帰宅できるほど甘くはない。日の傾いた頃、なんとかうまい言い訳を編み出して
会社を抜け出し一目散で帰ってくると、水槽で優雅に泳ぐ黒と赤の姿はすでに
なく…
「…おや、今日はお早い帰りなんですねギル」
 風呂場から見知らぬ男が出てきた。全裸で。だだだ誰だてめーどどどっからと
当然警戒するが、その声には聞き覚えがある。菊の声だ。忘れんぼのあなたが
カーテン開けっ放しにしてくからいけないんですよ!茹だるかと思いました!と
いつものプンプンした口調で風呂場に戻っていきカルキ抜きの錠剤を浮かべた
バスタブに浸かるとその細い両足は見る見るうちに黒と赤の鱗をした魚のものに
変化し、ヒレで俺にぱしゃんと冷たい水をにかけてよこした。お前、菊か?と念の
ためもう一度尋ねるとそうですよ、お疑いですか?と次の瞬間には水中を悠々と
泳ぐ金魚の姿になる。菊は化け猫ならぬ、化け金魚というものなのだそうだ。
何故か俺はあまり驚かなかった。むしろ人間の姿にもなれるなら早くそう言って
くれれば良かったのにと思ったぐらいだ。菊の声は俺にしか聞こえないのだから
会話すればするほど宇宙からの電波交信説を疑われてた兄弟にも晴れて友人
として紹介が出来るというものだ。ひとつだけ難を言えば歩くのが得意ではない
という菊を抱きかかえて実家に連れて行ったときのことだ。えらい誤解をされて
しまい、腹が立つやら恥ずかしいやらですぐに逃げ帰ってしまった。水槽に戻して
一息ついたあたりでお前、彼女とかほしいか?と聞いた俺に、菊は今更あなた
以外の伴侶なんて要りませんよ馬鹿ギル!と短気な金魚は何だか怒っていた。
なのでだよなあ、俺もそうなんだよと教えてやる。金魚の寿命は最大で三十年
程度らしいがこいつは化け金魚だから何年生きるやら。どうやら長い付き合いに
なりそうだと少しだけ幸せな気分で俺は水槽を撫でる。菊は素知らぬ顔で水面を
泳ぎ続けている。





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