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※動物化注意 可愛かろうと、飼い主になるためには最低限備えておかなければならない条件がある。犬だったら 散歩にかける時間だとか、熱帯魚だったら水質や温度の管理だとか。ペットなんぞにいちいち手間 暇かけていられないというのであれば、はじめから飼う資格がないと諦めて手を引いたほうがいい。 そのほうが飼われるペットのためである。 そういうわけで、シュヴァーンは飼い主としてほぼ失格と言っていい男だった。何しろ月の半分は 家を空けるので自活できるはずもないペットはその期間ずっと他人の家に預けられているのだから。 たまたま預かってくれる人がいたからいいものの、もし頼れる人がいなかったらどうする気だったの やら。職務上、家を空けるのが避けられないとわかっているのならやはり飼うべきでなかったのでは と責められても仕方のないことである。 帝都に帰還すれば荷物を置く暇すら惜しいとばかりに急ぎ引き取りに向かう様子など、彼が本当に 愛情を注いでいるとしても、預かり手は四六時中窓の外を眺めては飼い主が迎えに来るのをじっと 耐えて待つ姿を見ているのだ。猫といえど聡いもので、最初は自分が捨てられたのではと悟ったか して大いに暴れ、飼い主の元へ帰ろうと一晩中ドアにガリガリ爪を立てていた。飼い主を呼ぶ切ない 鳴き声もよく覚えている。なので、今更彼と彼の愛猫の仲を引き裂こうと思う者はいなくても、もう少し どうにかならないかと預かるほうは思うのだ。つまり、もうちょっと早く戻ってこれないのかと。 シュヴァーンにしてみればそんなこと騎士団長閣下に言ってくださいよ俺だって一分でも一秒でも 早く帰りたいのよ、と思うのだが、如何せん騎士団長閣下から直々に下された極秘任務ということに なっているので深刻ぶった顔をして「そうしたいのは山々なのだが」と低く唸るのみである。あるいは 極秘任務とやらで向かう先々に連れて行ければ離れ離れにならずに済むのだが、魔物も出没する 危険極まりない道中もしも何かあったらそれこそ生きていけない。たとえ偽の心臓が動いていたって 何の意味があろうか。そうしていつも泣く泣く安全な帝都に置いていくことになるのだった。 さて、シュヴァーンがこれほどまでに溺愛する愛猫はベルベットのように艶やかな毛並みが自慢の 雄の黒猫である。名前はユーリ。子猫のときに冷たい冬の雨の中で凍えていたのを保護して以来、 他の飼い主候補には決して懐くことのなかった一途なかわいこちゃんだ。独身三十五歳、恋人なし 家族なし友達なし過去なし心臓なし心優しい上司なし、ないない尽くしの無味乾燥な人生で、唯一 打算も計算もなく長年の二重生活に疲れきって帰宅するシュヴァーンを自然体で迎え入れてくれる 存在、それがユーリだった。 ごく稀にある平穏な夜、窓の向こうに顔を見せた月や星を眺めていると見る見るうちに分厚い雲に 覆われて土砂降りの雨に遮られたりする。運命や因果を信じていないシュヴァーンでもそれに近い、 何か大きな存在にすべて否定されたような気がして、ひどく打ちのめされる。すると元来やんちゃで 気ままな性格で、過剰に構われるのを嫌うユーリが珍しく自分から足元に擦り寄り、撫でてくれよと 言わんばかりに頭を突き出してきたり、膝の上に飛び乗るや否やそのまま深い眠りに落ちたりする。 こうした愛猫の態度に何かを許されているような、胸の奥に積もり積もっては次第に息をすることも 困難にする重たい何かを解放してくれているような、ユーリはそんな安心感を与えてくれるのだ。 そこで問題、シュヴァーンは溺愛する飼い猫と二度と会えなくなったらどうなるでしょうか? 正解は"気が狂う"です、とばかりにシュヴァーンは彼の頭から苦悩を煮出したように濃い琥珀色の 酒を煽る。目の前では温めたミルクを熱い、熱いと言いながら舌先で少しずつ舐めるように飲む男、 猫耳と猫しっぽ付き。 ダングレストにはうさ耳を世に定着させようとする爺がいたので帝都も似たようなのがいるんだなあ 程度は思ったが、本物の猫を愛しているシュヴァーンは路傍の石ほどの興味もない。だがコレを引き 取らないとあのクソ上司、預けるたび愛猫にストレスで十円ハゲをこさえたり、毛艶を見たこともない ツヤッツヤにしたりとまるで別猫のようにしやがるので、こいつにだけは預けたくないランキング堂々 一位に輝くクソまいたけが返さないと言いくさるのだ。 生憎ルブランは出張中、フレンは巡礼中だったので他に預ける当てもなく、己の交友関係の狭さに 本気で泣きたくなる。しかも件の青年、薄いシーツを一枚腰に巻きつけただけという、いろんな意味で 危うい格好で視界をうろちょろするので、ああ邪魔くさい一発かましたろかと思えば「しゅば、おれの ことわかんないのか?」などと言い、知らないわかんないおたくさんどちらさん初めて会うわと冷たく 早口で対応すれば、耳をぺたんとしてあからさまにションボリする始末。今にも泣き出しそうに水分を 湛えたすみれ色にはどこかで会ったことがあるような気がしないでもない。が、この青年には本当に 覚えがない。 果たしてどこで会ったのだろうか。男のくせに髪を長く伸ばしてもこれだけ顔がいいとあんまり嫌な かんじはしない、どこからどう見ても美形というより美人の部類だ。惜しむらくは、男だということだ。 男はまずい、男は。しかし、艶々の黒髪が首を傾けるとくっきり浮いた鎖骨あたりにさらりと落ちて、 なんともいえぬ色気のある兄ちゃんである。肌は透けるように白く、やたら細くて鯖折りなんかしたら 本当に折れそうだ。彼は閣下の愛人か何かだろうか…煮詰まった挙句、とうとう男に走ったんで? なんて怖くて聞けない。尻がきゅっとなる。 考えても仕方がないので好物なんか聞いて、甘いパンケーキとホットミルクを提供してやりながら、 今頃どこで何をしているだろう、愛しい黒猫に思いを馳せる。「ゆーり…」とため息と一緒に零れ出た 名前に「おれだ、ゆーり、おれだ!」と空気を読まず、元気に手を挙げる青年。もう文句を言う気力も 湧かない。時刻は深夜。長距離移動で疲れていたシュヴァーンは愛猫の代理として渋々それなりに 温かい青年で妥協し、湯たんぽ代わりにしてべそべそ泣き寝入りを決め込んだ。途中、妙に出来の いい猫しっぽを興味本位で弄くって遊んでいたらなんだかそういう雰囲気になってしまい、いわゆる 疲れマラとかいうアレが悪戯してついつい致してしまったが、これは閣下のおこぼれをいただいてる だけで断じて宗旨替えとかじゃないですよと自身に言い聞かせた。 そして明くる朝。尻が痛いと喚く青年に責任持って治癒術をかけてやり、要望どおり昨晩と同じ甘い 食べ物を与えつつ事情聴取がてら名前住所年齢その他確認していたときである。「名前はゆーり、 つけたのはあんた、うちはここ、年は二歳」と仰る青年にちょっとそろそろおふざけはいい加減にして ちょうだいと怒鳴りつけようとした瞬間、シュヴァーンは雷に打たれたように突如思い出した。あンの クソ上司、魔物だの人間だので生物実験していなかったか?!と。 道理で忌々しく耳に残る尊大な口調と謎のテンションでお前の猫と会話できたら嬉しいと思わない かね?どうかね?としつこく聞いてきたはずだ。会話なんかできなくても俺とユーリは通じ合ってます 余計なお世話ですからさっさとうちの子を返してくださいと答えた途端、ツーンと拗ねたような態度で この青年を強引に押しつけてきたのである。ということは、だ。青年はもしかしなくても、うちのお猫様 なのでは? 「しゅば、やっとおれがわかったのか!」 感情に同調して耳としっぽがピンと伸びる高機能ぶり。どうやら最新の魔導器ではないらしかった。 |