※動物化注意





「 Hakunamatata 」



 みぃみぃ、だとか。みゅうみゅう、だとか。ちっさいくせに小うるさいのが鼻先から体当たりみたいな
勢いで寄ってきて、小枝みたいなちっさい前足で右、左、右と腹のあたりを押しては鳴き、一生懸命
乳をねだってくるものだから、邪魔くさいとは思っても手荒に跳ね除けるわけにもいかず。というより、
何故だか俺のほうが申し訳ない気分でいっぱいになってしまったのだ。俺はお前の母親じゃないし、
そもそもオスだ。まだ目が開いて間もない赤ん坊に区別つけろというのも酷な話、せめて早くメシを
やってくれよと大人の俺が代わりにニャアニャア呼んでやるのだが、ニンゲンときたら今日に限って
妙に反応が鈍い。またぞろキュウカンでも来ているのだろうか。放っといたらこっちの命だって危うい
のに。
 ぴゃあぴゃあと騒ぎ続けるあったかい毛玉を舐めて、もうちょっとだけ辛抱してくれと励ましながら
俺は声を張ってひたすら鳴く。すると外で異常を察知したのだろう、でかい生き物がせまっこいドアを
器用に潜り抜けてたったと駆けてきた。青い毛並みにすらりと伸びる長い足と尻尾。がう、と低くひと
吠えするこいつはイヌ。ニンゲンたちはランバート、と呼んでいる。俺たちネコとのあいだに共通する
言語はないが、頭のいいヤツだ。きっとこの窮状を理解してすぐにニンゲンを呼んできてくれるはず。
 悪いけど、引きずってでも連れてきてくれ、このままじゃあこいつ、腹を減らして死んじまう。言葉が
通じないなりに切迫した空気だけは伝えようと、呑気にすんすん鼻を鳴らすイヌにパンチと頭突きを
お見舞いする。そして、今はあんたが頼りなんだとニャアニャア再度頼み込む。やっと意図が通じた
のか、わふっとイヌは頷き、風よりも早く外へ駆けていく。程なくしてニンゲンは慌てた様子でやって
来た。
 遅えよ!と怒鳴りつけてやろうとしたものの、イヌにフクに噛みつかれて困り顔のニンゲンには胸が
すいた。本当に引きずって連れて来てくれたんだと思えば今は素直にありがたい。お礼はまた今度
改めてするとして、まずはこの赤ん坊だ。ネコの子育てにも慣れているこのニンゲンは道具を使い、
手早く乳を与える準備をする。といっても本物の母乳ではない。うまくはないし、変な臭いだってする
紛い物だ。けれども腹はいっぱいになるし、栄養だけはあるらしいから命を繋ぐには事足りる。何故
俺がそれを知っているかというと、親なしの俺も赤ん坊の頃はソレで乳を与えられたクチだからだ。
 ちっこい口に先っぽを当てると、哺乳瓶の中身はみるみる減っていった。そのあいだにも赤ん坊の
前足はまた右左、何もない宙を押している。無意識の癖なんだろうか、俺も昔はあんなことしてたの
かと思ったりして妙に気恥ずかしくなった。腹をぽっこり膨らませ、眠そうな赤ん坊の背中を撫でたり
舐めたりしてげっぷを促しつつ、なかなか来なかったニンゲンをじっと睨む。イヌがいなかったらどう
なっていたことか。赤ん坊の体が冷えないよう仰せつかった俺はほとんど動けないことになってるん
だから、あんたがちゃんとしてもらわなきゃ困るんだぜ、タイチョウ。
 侘びのつもりだか何なんだか、ぐりぐりと撫でてくる手にぐいぐい頭を擦りつける。タイチョウ、という
のはこのニンゲンの呼び名のひとつだ。名前も他にあるし、センセイとかジュウイさんとか呼ぶヤツも
いる。俺は誰かがふざけて呼んだタイチョウって響きが特別気に入っているのでそう呼ぶ。もちろん、
このことをタイチョウが知るはずもない。
 タイチョウは俺の育ての親であると同時に、ニンゲンのくせにニンゲンじゃない生き物の医者をして
いる変わり者だ。ランバートよりもっとずっとでかい図体のくせに前足はものすごく器用で、いろんな
動物の怪我や病気を治してしまう。本当の親のことなどひとつも知らないが、ニンゲンのタイチョウが
ネコの俺を実の親同然に育ててくれたことを心から感謝しているし、タイチョウの仕事も誇りに思って
いる。だから俺だってこの赤ん坊を放っとけない。
 こいつのこと頼むなと改めてタイチョウに言いつけられなくったって、俺は兄代わりを務める気満々
だった。タイチョウの手伝いをすることが俺なりの恩返し。少し赤ん坊の様子を見守ったタイチョウは
俺の頭をひと撫でして、また足早に仕事場に戻っていく。ランバートにはとっておきのマタタビを進呈
したのだが、礼には及ばねえとばかりに頭を左右に振って、たたっとタイチョウのあとを追っていって
しまった。さすがタイチョウのイヌ。よそのアホなイヌと違って男前だ。

 ネコの成長は早い。あっという間に乳より固形のメシを欲しがるようになった赤ん坊はフレンという
名を与えられた。好奇心旺盛で、うろうろ歩き回るうちに高いところから下りられなくなったり、自分が
どこにいるのかわからなくなったりと、助けを求める声が四六時中聞こえてくる。おちおち昼寝もして
いられない忙しい毎日だ。はじめは首根っこくわえていちいち寝床に連れ帰ってやっていたけれど、
あまり甘やかしすぎてもいけないと思い、最近ではほったらかしなことが多い。とはいえ神経は常に
ぴんと張り巡らせているのでそこらの加減は気を遣っているつもりだ。そろそろ完全放置でもいいの
かな、という気もする。だってあいつ、もう俺よりデカくないか?
 ネコにもいろいろなヤツいる。外国生まれのヤツには俺の二倍もデカいのがいる。毛がふさふさで
ケットウショ付きのタイチョウのところに来るヤツだ。あとは泳ぐのが好きとかいう変わったヤツとか、
短足なヤツとか、毛のないヤツとか、ニンゲンみたいにいろいろだ。イヌだって同じ。なんとなくウマの
あうヤツもいれば、あわないヤツもいる。種族の違いなんて所詮そんなものなのかもしれない。
 これから大人になるフレンはどういうネコになるんだろう。耳に噛みついたり体によじ登ったり、俺を
玩具にして好き放題遊んでいるフレンがここんちのネコになっていいダチになってくれたら嬉しいの
だが、その頃にはもうちゃんとした飼い主が決まっているに違いない。貰い手がなかった俺と違って
フレンの黄金の毛並みはたいそう見栄えがいい。目の色もまるで青空のようだ。ちょちょいとしっぽを
動かしてみると飛び跳ねるボールみたいにじゃれつく仕草は愛らしいし、トイレの場所だってすぐに
覚えてしまった将来が楽しみなネコだ。きっといい飼い主が現れるに決まっている。
 立派な大人になったとき黒い兄ちゃんにしつこく舐められたことでも思い出してくれればと願って、
いつのまにか眠りに落ちかけてる顔をべろべろ舐める。くすぐったいとでも抗議しているのか、むにゃ
むにゃ口が動き、結局そのまま眠ってしまった。褒めた途端これかと、ものすごい不細工な顔で熟睡
しているのを見、貰い手が決まるまで睡眠の邪魔はすまいと心に誓った。

 チビのフレンが引き取られてからどれぐらい経ったのか暦を持たない俺には知る由もないが、外が
何か白いもので覆われたことが何度かあったのは記憶している。部屋もなんだか寒くて、暖かい風を
くれるキカイの前でごろごろする日がしばらく続いて、ようやく近頃少しずつマシになってきたかという
頃だった。タイチョウがフレンに何かあったようなことを言い、俺まで狭い箱に入れられて運ばれた。
そこはやたらと広い場所で、運ばれながらも感じ取るネコでもイヌでもない、本能的にぞわぞわする
嫌なにおいがいろいろ入り混じった恐ろしい場所だった。小さく鳴くとタイチョウは大丈夫だ、と優しい
声をかけてくれる。怖くねえよと応えながらも、本当のところはフレンのことがなければ今すぐここから
逃げ出したかった。
 やがて連れられてきたのは、見たこともない生き物のいる部屋だった。ニンゲンほど大きくなくとも
俺からすると小山のように大きく、そいつが吼えるだけでタイフウの夜みたいに耳の奥までびりびり
する。怖ええ、と思わずタイチョウの陰に隠れようとしたそのとき、ゆーり?と聞いたことのある声が
俺を呼ぶ。まさか。鉄の棒の隙間を抜けて、そばに近づくごとに懐かしいにおいが強くなる。まさか、
フレンか?と信じられない気持ちで聞き返した。だって、俺が知っているフレンとあまりに姿かたちが
変わっていたのだ。
 そうだよ、僕だよユーリ!とフレンは嬉しそうに吼えるなり、分厚く長い舌で喉の下から耳の先っちょ
までいっぺんにべろりと舐めあげる。小さいときいつもこうやって寝かしつけてくれていたでしょ?と、
寝かしつけるためにしてたわけじゃないが、どうやらそう捉えていたらしいフレンは何度も俺の真似を
してみせた。こいつはフレンに間違いない。しかし、それにしたってこれはどういうことだ?と混乱した
ままの俺は、懐かしむのもそこそこにフレンに説明を求める。うーん、何から話せばいいのかな…と
ちょっと困った風なフレンはもうすっかり大人になって、状況を全部理解していた。
 結論から言って、フレンはネコではなかったようだ。ライオンという、大陸に住むネコの仲間らしい。
親がうまく育てられなくて、タイチョウのところに預けられていたとか。大人になって、そろそろ恋とか
結婚とかする年頃になったけれど、どうしても仲間をそういう目では見られない。むしろ幼い頃、仲の
良かったネコに会いたい。聞き分けのいいフレンがガウガウと駄々をこねるものだから、困り果てた
ニンゲンがタイチョウを呼び、とうとう俺がこうして連れられてきたというわけだ。
 お前なあ…と呆れ果ててべしんと前足で小突いてみても、大きな体はびくともしない。おかしいな、
ユーリってこんなに小さかったっけ?なんてとぼけている始末だ。馬鹿、お前がデカくなったんだよ。
大人になっても俺のこと覚えていてくれたらいいなあとは思っていたが、これは誤算だ。立派な足は
俺の胴ぐらいあるし、無邪気に乗っかられたら潰れてしまう。だけどぴゃあぴゃあ鳴いていたチビの
フレンと変わらない表情でずっと一緒にいようよと鼻をくっつけてくるものだから、どうしてもダメだと
言い出せない。俺はオスだし、ネコなんだから本当は絶対にダメなはずだ。でもフレンときたら今にも
泣き出しそうな顔をしている。
 タイチョウ、俺どうしたらいい?と困ってにゃあんと見上げたらお手上げとばかりに両手をバンザイ
していた。やっぱりそんなものか。ニンゲンもネコも、泣く子には勝てない。

 そんなことがあって、俺はドーブツエン住まいとなった。フレンの仲間から見れば俺はまさに泥棒猫
というかなんというか、そういった事情でどうにも反りが合わなくて、俺とフレンは別の部屋をもらって
一緒に住んでいる。単にライオンの小部屋だと思っているニンゲンたちは、フレンの襟巻きから俺が
にょっきり顔を出すと驚くようで、ちょっとした悪戯が成功したみたいで少しだけ気味がいい。ガラスの
向こうであのネコ危なくないの?なんて心配しているのを聞くと、フレンが俺に危ないことなんかする
かよと言ってやりたいぐらいだ。
 な?と同意を求めたものの、けれど返事はない。どうかしたのか尋ねてみれば、近いうちに危ない
ことをするかもしれないよ?と、にこにこと笑いながらなんとも恐ろしい予告をしてきた。あのでっかい
爪で裂かれるのか、あのでっかい牙で食いちぎられるのか。フレンのメシは俺と同じカリカリじゃなく
血の臭いがする生肉だって知っているからまあ、今更何があっても覚悟の上というべきか。
 好きにしろよ、俺さ、お前なら許せるからと背中の上でだらんと垂れている。そういう意味じゃないん
だけどね…と苦笑するフレンが何を企んでいるのか、不幸にも俺はまだ何も知らないのだった。





ブラウザバックでおねがいします