※死にネタ注意!




「 また会える気がするんだ 」



 明日のお昼、そちらにお邪魔してもいいですか?と珍しく本田はメールではなく
電話で連絡を寄越した。メールのほうがいつでも気軽に返信出来るからと互いに
医師として別々の病院で働く関係上、ルートヴィッヒと本田のやり取りは特別急ぐ
用事でもない限りいつもメールだった。ゆえに当然ルートヴィッヒは緊急の事態を
脳裏に描き、トーンを落とした低い声で何かあったのか?と尋ねた。本田はある
患者について外科医としての見解を聞きたいのだという。確かにルートヴィッヒは
研修医の頃から抜きん出た優秀な外科医だったが、本田の病院にも外科医は
いるはずだ。そこらの医師では手に負えないほどひどい病状なのかと身構えると
本田は肯定すると共に患者が自分たちがよく知る人物なのだと明かした。それで
納得がいったルートヴィッヒは外来も終わる昼すぎ、ちょうど執刀の予定も入って
いないことから本田の来訪に待っていると答えた。明日会うのだから細かな話は
会ってからすればいいのに通話を終える間際、お元気ですか?お酒飲みすぎて
ませんか?ちゃんとバランスよく食事摂ってますか?きちんと休んでいますか?
と友人というより母親のような物言いをするのは相変わらずでルートヴィッヒは
苦笑しながら大丈夫だ定期健診は受けてるよ、医者の不養生なんて格好悪い
からなと告げるとふふ、そうですよねと電話の向こうで本田は笑うのがわかった。
ルートヴィッヒが明日待ってるよとどこか弾んだ声で伝えるとはい、では明日と
淀みなく返ってくる声が耳に心地いい。ルートヴィッヒにとって本田は単に医大の
同期という間柄ではない。入学時から名前ぐらいは知っていたがポリクリで同じ
班に振り分けられるまではそれほど親しいというわけではなかった。班で行動
する時間が増えれば否が応でもある程度親しくなる必要がある。すると途端に
ルートヴィッヒは本田との付き合いで悩むことになった。本田は変わった男で、
幼い子供のようにまっすぐな好奇心に満ちた無邪気な一面と年老いた禅僧の
ように達観した一面を併せ持つ非常につかみどころのない手合いだったのだ。
それはそういうものなのだと無理やり飲み下してしまえば己の知るカテゴリに
無理やり当てはめようとしてたことがそもそも間違いだったのだと気がついた。
本田は本田であってそれ以外の何者でもない。そうして余計な色眼鏡を外して
関わりを持った本田独特の空気は何かに例えるのは難しいがとても居心地の
いいものであり、やがて親友と呼ぶに相応しい存在になっていた。現在もその
関係は続いている。ルートヴィッヒは外科医、本田は内科医として一人立ちして
数年、忙しい日々の合間を縫って食事や飲みに行くこともある。最近は本田の
都合がつかなくて直接顔を合わせる機会がなかったからしばらく振りだ。例の
患者がたいしたことなければ医局の煮詰まったコーヒーを飲む時間でもあれば
いいが、ルートヴィッヒはそんな風に考えていた。翌日、午前の外来が終わって
すぐ医局に戻るとご無沙汰してますと会釈する本田の姿があった。どうも今日は
休みだったらしい。ルートヴィッヒが待たせてすまないなと言うと私がお願いして
いるんですからと首を横に振った。本田は早速本題に入り、持参したレントゲン
写真を見せた。白い板の下から光を当てると患者の体の内部が明らかになる。
ひとしきり観察した結果、ルートヴィッヒがとりわけ気になったのは胃だ。もっと
詳しい検査をしてみなければ断定出来ないが、おそらくは胃がん。それも最も
性質の悪いスキルス性で末期も末期。本田が望んだように外科医として見解を
述べるなら外科治療はおろか、どんな治療を以ってしても延命は困難であると
言わざるを得ない。ルートヴィッヒの冷静で救いもない死亡宣告にも近い言葉を
本田は一言も漏らさずじっと聞いていた。本田は患者をよく知る人物だと言った。
ルートヴィッヒは一体この患者は誰かと聞く。向き合った本田は私、なんですと
不恰好な笑みのようなものを作った。その表情を見たルートヴィッヒは一瞬、頭を
鈍器で殴られたような衝撃を覚えて意識が遠くなる。爪が手のひらに食い込む
ほど固く拳を握りこんでかろうじて正気を保てているが、そうでなければ今すぐ
レントゲン写真ごと機械を叩き壊してすべて悪い夢だと叫び出したかった。実は
私も同じ診断をしましたと本田はいっそ冷酷なほど淡々と現実を突きつける。
「余命三ヶ月ってとこですか。あはは、困っちゃいますよね」
 呆れるほどあっけらかんとした本田はルートヴィッヒを幼い子供のように大声を
あげて泣きたくさせるだけだった。休みというのは嘘で、本当は昨日付けで退職
していた本田は緩和ケア病棟のあるルートヴィッヒの勤務先にそのまま入院する
ことになった。昨日までにマンションも引き払って荷物も処分していたのを知って
ルートヴィッヒは忙しいという言葉を木偶のように信じて、医師の身にありながら
本田の変調を見過ごしてしまった己にひたすら怒りを感じていた。ルートヴィッヒ
さんごめんなさいと眉尻を下げて謝罪を繰り返す本田が石のように凝り固まった
指を丁寧に解いていく。何故本田が謝らなければならないのか。ルートヴィッヒは
とうとう堪えきれずに涙を流した。嗚咽は出てこない。本田がハンカチで拭っても
静かに溢れる涙は止まらなかった。

 元々自宅で休む時間は少なかったが、本田が入院してからルートヴィッヒは
必要なものを取りに行く以外は家に帰らなくなった。勤務時間を終えたら白衣を
脱いで緩和ケア病棟に直行する毎日だ。院内外を二人で散歩したり、何気ない
雑談を楽しんだり、携帯ゲームで遊んだり、医大時代はそれどころではなかった
夏休みを満喫しているような楽しい日々だった。しかしそれも病状の進行と共に
失われ、学生時代から痩せぎすだった本田がさらに痩せて、車椅子を常用する
頃には食いしん坊もすっかりなりを潜めてしまった。流動食を残してばかりいる
のを見かねて暇を作っては医大のすぐそばにあった老夫婦が営む洋菓子店の
黄身の色濃い昔ながらのプリンを買ってきても数口味わうのが限界で、けれど
本田は毎回大袈裟なぐらいに喜んだ。ルートヴィッヒさんったらムキムキなのに
甘いもの大好きなんですよね、試験が終わると必ず自分へのご褒美って今時の
女の子みたいなこと言ってケーキ全種類買い占めて、お店の人もお持ち帰りだと
思いますよね、ここで食べていくって答えたときの顔といったらもう、ルートヴィッヒ
さんかっこいいからなんか似合わないっていうか、いえ悪い意味じゃないんです、
すごく可愛いなって。本田は昔話をしながらよく笑った。夢のように現実感のない
時間は常に恐ろしい死と隣り合わせで、ルートヴィッヒはこのまま時が止まれば
いいと願わずにはいられなかった。本田が一日の大半を眠ったまま過ごすように
なってもルートヴィッヒは病室に通い、応答がない相手に話しかける。物心ついた
頃から現在に至るまで、面倒見はいいがアクが強すぎて友人のいない兄の話、
屋敷の中で迷子になる方向音痴の従兄の話、食い意地と逃げ足の速さだけは
認めるヘタレな幼馴染の話、実家にいる犬の話、似合わないとまた笑われるかも
しれない実らなかった初恋の話など取り留めのない、さまざまな話を。俺だって
人並に恋をするんだ、可笑しいか、お前こそどうなんだと文句を垂れて安らかな
寝顔を見つめて、黙々と食べ進めたクッキーが最後の一枚になってやっと同じ
ものは二度と手に入らないと気づいて惜しくなる、そんな恋の在り方を本田はどう
思うだろうかとルートヴィッヒは考える。悪化する前、好きな人はいるけれど今更
遺言のような告白をしてもその人のためになるとは思えないとつぶやいた本田を
思い出す。だからルートヴィッヒもこのままでいいのだと思った。大切な気持ちは
ずっと胸に秘めていようと。形にしないからこそ死ぬまでその恋に縛られることに
なろうと、それがいいと。最期に意識を取り戻したとき、本田は掠れる声でまた
会うことがあったらと笑った。その続きは音にならなかったが、ルートヴィッヒは
骨と皮だけになってしまった小さな手を取ってああ、ああ、わかってると何度も
頷いた。数日後、勤務中に呼び出されて病室に駆けつけると脈動は途絶えて
平坦な線を描いていた。不思議なことに本田の余命を知ったあのときほど絶望
することも涙を流すこともなかった。まだ温もりのある頬や手に触れてそれらが
完全に冷たくなるまでそばにいたかった。





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