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※ドラマ青い鳥パロ ルートヴィッヒは山間の小さな村唯一の駅に勤める、唯一の駅員兼駅長だ。 仕事はもっぱら駅舎周辺の清掃と古い券売機の点検、釣り銭の補充、二時間 から三時間に一度の電車の発車の合図を出すこと。半袖の白いシャツに黒い ズボン、制帽に白手袋が六月からの正装だ。この日は梅雨の重たい雲をうまく かわしたような晴れ間が朝から続いて、蝕むような暑さだった。おそらくは今年 初めての真夏日になるだろう。手を傘に青い空を見上げる。視線を落とすとつい さっき電車を見送ったばかりのホームにまだ人が立っていた。木綿のシャツと、 地味な色のズボンの、ひどく存在感の薄い男。つないだ手の先の幼い子供が 生き生きとした子供らしい歓声を上げなければルートヴィッヒは陽炎が見せた 幻か何かだと思ったに違いない。目が合った男は軽く会釈をして去っていった。 額から流れる汗を手袋で拭いながら見たことのない顔だ、と思った。この駅は ほぼ地元の住民しか利用しないと言っていい。ルートヴィッヒの知らぬ顔を見る のは滅多にないことだった。清潔感漂う服装と、何の感情も見出せない表情、 照りつける太陽の光さえ写しこまないブラックホールのような黒い瞳は微塵の 光もなかった。一方、子供は非常に元気で、電車かっこよかったと騒いでいて 微笑ましかった。対照的な二人だが、仲のいい親子という印象を受けた。その 証拠に子供は一度も男から手を離そうとしなかったのだ。こんなド田舎に気の 早い避暑か何かだろうかとこのときは酔狂に感じるばかりだった。それから 数日後、親子は再び駅にやって来た。今回は一応発車させる前に声をかけた。 「乗られますか?」男は首を横に振る。そもそも男は切符を持っていなかった。 乗客は他にいない。昔ながらのやり方で切符にチョキンとはさみを入れる運転士 兼車掌はそのやり取りを見て車内に戻っていき、ルートヴィッヒは発車の合図を 出す。ゆっくり走り出した電車を見、子供がはしゃぐ。彼はきっとこの子に電車を 見せに来たのだと理解した。先日も今も平日の昼間だ、勤め人とは思えない。 変わった男だとつくづく思う。子供はルートヴィッヒを駅長さん、駅長さんと呼んで 電車ってスゴイよ、かっこいいと無邪気に話しかける。人懐こい笑顔で呼ばれて 悪い気はしなかった。制帽を頭に乗せてやればとても喜んで、ルートヴィッヒは その日から子供の大のお気に入りになった。以降、この親子は数日おきに駅に やって来ては電車を見て帰っていく。夏の盛りを迎える頃には天気の話だとか そんな世間話をする程度には男とも親しくなった。ある日、馴染みの客が二人の 姿を見つけて何事か話したあと子供にお菓子を手渡すのを見た。子供はたかが 菓子をそれ以上の価値があるかのように殊更喜んで、男は深々と頭を下げる。 菓子ぐらいでこんなに喜ぶのは男が普段与えていないからだろうかと違和感を 覚える。子供を見つめる男の目はいつも優しく穏やかで、何かを制限するような 厳しさはまったく見受けられなかったからだ。その真相が知れたのはこないだ 子供に菓子をあげていた中年女性の二人組の降客と再び遭遇したときだ。あの 男は本田といい、政界にも顔の利く地元の名士として知られるカークランド氏と 内縁関係にあるのだという。あの子供は本田とカークランドとのあいだに出来た 子ではなく、本田がカークランドによって無理やり引き離された男との子で名前は フェリシアーノというらしい。その男は現在行方不明で、死亡と見なされる日が 来れば本田はカークランドの正式な伴侶となる手筈らしかった。そのとき親子が どうなるのか、大体の想像はついた。だから今のうちに本田はフェリシアーノを たくさん甘やかしてやりたくて好きな電車を見せに連れてくるのだろう、あるいは 果たせぬ逃亡の夢を抱いて線路を滑る電車を遠く見送るのか。本田はどこにも 行かぬようにカークランドから一銭たりとも金を与えられていないそうだ。監視の 目もある。ゆえに衣服も粗末なものしかなく、フェリシアーノに菓子のひとつさえ 買ってあげられない。自由になるための切符など夢のまた夢だ。本田ひとりが 歩いて逃げ出すことは可能だろうが、彼はフェリシアーノを置き去りに出来ない。 ではこの山間部で幼い子供を連れて一体どこまで逃げられるというのか。たとえ 逃げ出してもそのあと一体どうするというのか。ひとつの家庭を、ひとつの幸せを 容易に壊してしまう恐ろしい執着心と権力を持った男がみすみす本田を見逃す とは思えない。見えない何重もの足枷が本田の存在感を希薄にしていたのだ。 もしかするとフェリシアーノだけが心の支えで、それがなければ本田はとっくに 命を絶っていたのかもしれない。ルートヴィッヒは父親が生前この駅の駅長だった こともあり、自然にこの道を選んでいた。レールの引かれた安寧な人生だ。しかし あの親子には地図もコンパスもない。二人には誰かの指針が必要だ、誰も差し 伸べてくれないならいっそ自分が。使命感のようなものを自覚したとき、初めて ルートヴィッヒは本田をいつのまにか愛していたのだと気づいた。そんな矢先、 駅舎の隣にある住まいに夜中、突然の来客があった。本田だった。土砂降りの 雨の中、傘も差さずカークランドの屋敷から飛び出してきたようだった。涙と荒い 呼吸で話もままならないずぶ濡れの本田にタオルを貸し、懸命に落ち着かせて 話を聞くと、カークランドが懐かないフェリシアーノを東京の知人に預けると言い 出したのだと。幼いなりにどうして本田が父ではなくカークランドの元にいるのか 感づいているフェリシアーノは原因であるカークランドを心の底から嫌悪していた。 カークランドもカークランドでフェリシアーノを疎ましく思っていた。時期が来るのを 待たず決断したのはすべてそのせいだ。絵を描くのが好きだと聞いてスケッチ ブックや色鉛筆を用意してやると嬉しそうに電車や本田やルートヴィッヒの絵を 描くフェリシアーノの笑顔を思い出し、胸が熱くなる。それを見守るまなざしも。 二人は絶対に引き離されるべきではなかった。絶対に。翌日、本来なら見送る だけの電車に二人を連れて乗り込んだはいいが、三人には行くべき場所もない。 絶対の指針など誰にも持ち得ないことに気づいたところで最早引き返す道など 見当たらない。星を頼りに方角を知る古の旅人のように、運命は手探りでさまよう しかないのだ。もし頭上に広がるのが月も星もない夜空だとしても。 |