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もしも気品という本来形のないものを体現出来る人間がこの世に存在するの なら、おそらく彼をことをいうのだろうと男性空港職員は思った。すらりと背が 高く、見目も身なりもいいその男性は髪の色こそ自然な黒と、茶や金といった 今時の若者や、ともすれば赤や青などアニメのキャラクターじみた人工の色を した日本人と比べれば地味なものだが、漂う高貴な雰囲気が底の浅い印象を 明確に裏切っている。そして間近に相対すると彼の瞳は宝石のような美しい 紫色をしていて、国籍の違いもまた強く感じさせるものだった。男性は優雅な 動作でポケットから一枚のメモ用紙を取り出し、職員に英語で質問をしてきた。 彼の英語には若干どこかの訛りがあり、察するにドイツかそのあたりのものだ。 内容は「この場所に行きたいのだが行き方がわからないので良ければ教えて いただけないだろうか?」ということだった。メモ用紙には丁寧だがわずかに癖の ある筆致でアルファベットと数字が書き連ねてある。その住所に何があるのか 職員は知らなかったが、途中までの道のりなら何とかなりそうだ。まずは一旦 都心に出て、この路線の電車に乗り換えて、この駅で降りて、次はこの路線の 快速や急行でなく各駅停車に乗って、この駅で降りて、あとは駅前に交番がある のでそこで詳しく聞くのが一番いいと思う、そのような説明をメモ用紙の余白に 路線名や駅名を書き加えながらすると男性は「よくわかりました、ありがとう」と 英語で礼を言って颯爽と空港を立ち去った。その背中を見送った職員は鼻腔を くすぐる上品な残り香に、貴族って本当にいたんだ…とぼんやり思った。それが 四時間前のことだ。空港からメモにあった住所まではたとえ初来日でも三時間も あれば充分余裕を持って到着出来るはずだった。ところが目的地から遠く離れた 東北の田園地帯に男性はいた。外国からの客も多い国際空港とは違い、すぐに 英語を解して適切な道案内をしてくれる者になかなか巡り会えない。というより 夕暮れの田んぼの真っ只中ではそもそも通行人がいない。どうしたものかと思い 悩んでいると、奇跡的に学校帰りと思しき女子高生が自転車で通りがかった。 神の思し召しとばかりに声をかけると突然こんな何もないところで、しかも苦手な 英語で話しかけられた女子高生はひたすら面食らっていたが、困っている人を 放り出すことも出来ないので身振り手振りを多く織り交ぜながらとりあえずこの 道をずっとずっとまっすぐ行って、信号のある交差点を右に曲がって少し進むと コンビニがあるからその角をまた右に曲がって、三つ目の信号を左に曲がって まっすぐ行くと無人駅があるのでこの方面の電車が来たらそれに乗って終点で 降りて新幹線も止まる駅に着くからそれに乗って東京に戻って、あとはそちらで 聞いてくださいといったような説明をする。それをふむふむと聞いていた男性は 「よくわかりました。心優しいお嬢さん、ありがとう」と礼を言って颯爽と立ち去り、 その背中を見送った女子高生はほのかに香った上品な残り香に貴族って本当に いたんだ…と感動を覚える。その六時間後、男性は名古屋にいた。駅員によると 東京行きの新幹線は終了したとのことでその日は仕方なくホテルに宿泊した。 翌日改めて駅員に道筋を尋ねた男性は七時間後、九州にいた。偶然出会った 農作業中の老人の導きで五時間後には大阪に。すっかり日も暮れて繁華街の ネオンも華やかだ。どこかに向かう途中の虎の刺繍入りの上着を重ねた集団に 同じ質問を済ませたところで長い移動の連続でどっと疲れを感じ、今日は早めに ホテルを取って休んでしまおうと男性は考えた。そこに携帯電話が鳴る。向こうは 英語でもドイツ語でもない、どこの国にも属さない言葉の通じる長い付き合いの 相手だ。いっそ本人に連絡してみたらどうですか?と殊更安否を心配する彼女の ために、アポなしで訪ねて驚かせるつもりだったが「明日も無理だったらそうする ことにします」と妥協するしかなかった。結果として翌日もまた日本中を西に東に 行ったり来たりして男性は横浜とだいぶ近くまでは来ていた。しかし時刻は午前 零時近く。大きな落胆と共にいよいよ観念した男性は履歴から目当ての人物に 電話をかける。相手もまたどこの国にも属さない言語の通じる相手だ。「実は今、 横浜にいまして」と打ち明けた途端、彼らしくもないひどく冷静さを欠いた様子で ひとりでいらしたんですか?今着いたところですか?どうして成田でなく横浜に? 道に迷ったりしませんでしたか?と矢継ぎ早に問いかけを重ねてくるので正直に 「ええ、一昨日ひとりで来日しましてね、本当はあなたを驚かせようと思ったの ですが、恥ずかしながらやはり道に迷って困っています」と答えると「お、一昨日 ですか!」と滅多なことでは大声をあげない彼がどれほど動揺しているか如実に 伝えてくる。ともかく横浜のどこにいるのか聞かれ、周りの建物の特徴や見える 景色を教えると「今そこに行きますから!」という言葉を最後に通話はぷつんと 切れてしまった。それから一時間ほど経って男性の目の前にぴたりとタクシーが 停まる。降りてきた人物の、いかにも慌てて家を出て来ましたという出で立ちに 「なんて格好をしてるんですか、菊」と男性は苦笑した。着物にサンダル履きと ちぐはぐな装いの菊は軽く涙目で「もう!ローデリヒさんが驚かすからじゃない ですか!」と大した迫力もなしに怒鳴りつける。何はともあれ彼を驚かせようと いう作戦は成功したようでローデリヒは上機嫌だ。そうか、空港からタクシーを 使えばよかったんですねと他人事のように思いながらやっと菊の自宅に向けて 走り出した車内で「それにしても日本の交通システムは複雑でいけませんね」と 文句を垂れたローデリヒに菊は深々とため息をつき、「お願いですから次からは 空港で待っていてくださいね、何を置いても私が迎えに行きますから」と運転手に 見えないようにシートの上でそっと手を伸ばす。温まった手を握り返し、羞恥や 動揺やその他で赤らんだ横顔をちらりと見、どこかの誰かさんじゃないが好きな 子を困らせる楽しみをローデリヒはしばし堪能していた。 |