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※猟奇、ブラック注意 貿易会社を一から立ち上げた亡き父から金言として与えられたのは商品は 自分の目で直接確かめろということだった。跡を継いだアーサーはその言葉に 従って茶葉の買い付けのため長い航海の苦難を味わった。東洋の近道である スエズ運河はいまだ建造中で、喜望峰を回る大幅な遠回りを強いられ、多少の 船酔いなどには動じないアーサーであっても幾度も遭遇する嵐や、保存状態の 悪い食事には辟易したものだ。それらにもいい加減慣れた頃に望遠鏡はようやく 清の港を捉えた。父の代から続く取引相手は王という商人で、こちらも代替わり したばかりという若い主だ。通訳を介しての商談は難航しながらも何とかうまく まとまり、早速一級品の茶の味を確かめようという算段になったところに思わぬ 邂逅があった。壁伝いに非常に遅く、頼りない足取りで奥の部屋から出てきた 子供は十歳かそこらで一見少年か少女か判別しにくい容姿をしている。『哥哥、 お客様ですか?』という問いかけはアーサーには理解し得なかったが王が菊と 呼んだことで子供の名が菊であるとことは辛うじてわかった。『おいで』と王の 声にたっぷり時間をかけて歩み寄った菊は嬉しそうに笑って王に抱き上げられ、 アーサーにも紹介された。膝の上で行儀よく座る菊の艶々した黒髪を撫でながら 「我の可愛い弟あるよ」と王は自慢げに言ったが、その歩みが拙い原因を間近で まざまざと見せ付けられ、アーサーはそれどころではなかった。体格と比較して、 足首から先が異常に小さいのだ。「その足は、病気…か?」と恐る恐る尋ねれば そうではなく、纏足といってこの国に古くから伝わる風習なのだという。小さい足 こそが美しいという独特の観念や、歩行が不自由なせいで支配の手段ともなる 纏足は本来なら女児に施すものであり、政府もこの因習を昨今禁じてはいるが、 今もこうして陰でひっそり行われ続けているそうだ。「もっとこの足をよく見たい あるか?」と商談が成立してにこやかに雑談に応じていたその顔が薄気味悪く 歪み、アーサーの返事を待たずに小さいながら装飾の見事な靴が脱がされると 包帯越しにあまりに無残に変形させられた幼い足が曝け出された。「毎日毎日 我が丁寧に消毒して包帯を巻いてやるあるよ。『菊、痛くないあるか?』」優しい 声色に菊は純真そのものといった様子でこの恐ろしい所業に少しの疑問さえ 抱かずに『はい、哥哥』と笑顔で頷く。痛くないわけがないだろう、いや、すでに 痛覚が麻痺しているのかもしれない。どれだけ時間をかけたにせよ、ここまで 形を変えるのに激痛が伴わなかったはずがないのだ。何故愛する弟にこんな 仕打ちをするのか。「菊を愛しているからあるよ」と王は平然と笑った。アーサー にも弟がいる。自由奔放で、多少やんちゃではあるが可愛い弟だ。同じ兄という 立場であるのに弟に向ける愛の質が違いすぎる。アーサーは王のそれを愛と 呼ぶことが出来ない。自惚れではなく、ほとんどの人間がアーサーに同意する だろう。桃のように丸い頬に頬擦りをする王に、菊は人前のせいか照れて嫌がる 素振りを見せながら、それでも幸福そうな顔は崩れることなく笑い声をあげる。 世界中の人間が王の愛を認めなくとも菊にはそれがすべてだった。荷を運び 終え、薪水や食料も補給して帰国の日となった。しかしアーサーはあの少年の ことが気にかかって仕方がなかった。これから先もずっと、あのいびつな足で 王の腕の中という狭い世界でしか生きられない哀れな子供。アーサーは密かに 本国に連れ帰ろうと決めていた。王の留守を狙い、珍しい西洋の船を見て来ると いいと言付けられたと嘯いて無邪気にアーサーの腕に抱かれてきた小さな体を 素早く船に押し込むとすぐに帆を張った。王が今頃気づいても後の祭りだ。もう 船は大海に漕ぎ出している。菊は敏く、まだ港が見えるうちに自分が攫われた ことに気づいて兄を呼んで泣き出した。アーサーが帰してくれる気がないと知り 海に飛び込もうとしたが、菊の足では閉じ込めた船室を出ることすら難しかった。 結局は足枷ひとつ必要とせず長旅を終え、そのあいだに菊はすっかり無口な、 表情や感情の変化の乏しい人形のような子供になっていた。王に倣って毎日 足をくまなく消毒し、包帯を巻いてやるたびに物言わぬまなざしがアーサーを 責め立てる。屋敷に菊の部屋を設け、毎日自ら新しい花を飾り、さまざまな本を 与え、こちらの言葉も習わせ、広い世界と自由を手に入れても菊は笑顔を見せた ことがない。菊は成長し、いつしかアーサーの心の中には憐憫や同情ではなく 純粋な愛情が芽生えた。まもなく関係を結ぶようにもなる。不安定な足を支える ために発達した下半身の筋肉はアーサーをよく締め付けて、ハイヒールのような 形に矯正されてそれきり元に戻ることのなかった小さな足先を唾液をたっぷり 含んだ舌で舐めねぶると菊は一際甘い声で啼いた。そのときだけは菊の暗い 瞳に熱が宿り、終われば元の菊に戻ってしまう。だからアーサーは菊を抱かず にはいられなかった。湿った肌や吐き出した精液が乾かぬうちに何度も何度も 昼も夜も繰り返し繰り返し。己の顔は今、王の酷薄な笑みに似ているのだろうと アーサーは思う。支配こそが愛の証であると言ったあのときの、王に。介添えが あっても外に出ることを好まない菊が事後這ってでもベランダに出たがることが ある。はるか遠く東の方角を見つめ、「私はあのままで幸せだったのに」と消え 入りそうにつぶやく。それを耳にして次は目を支配しなくては、アーサーは冷静に そう思っていた。そして恨めばいい。恨んで、憎んで、その冷えた心に怒りの炎を 点せばいい。愛と憎しみは表裏一体だ。愛が得られないのなら、憎しみでいい。 自分を捨てていった愛しい弟を思い出す。所詮正しい愛の形なんてどこにも存在 しないのだ。アーサーもそれを身を以って知ることとなった。 |