|
※捏造エルトゥールル注意! 目を覚ましてまず視界に入ったのは見知らぬ天井だった。細い木の枝を屋根に したようなそれは乗っていた船とは作りからして違う。物置か何かに使う粗末な 狭い小屋はとんと覚えのない場所だった。外の風の音がやたら大きくごうごうと 唸っていて、建物ごと飛ばされそうだと不安が襲う。どこでぃここは、とサディクは つぶやいて体を起こしてみた。途端に鋭い痛みが全身のあちこちに走り、否が 応でも状況を思い出させられた。見栄を張って親切な制止を振り切って出航した 挙句がこのザマだ。情けなさに唇を噛み締めたって失われたものは二度と帰って こない。己の痛みは彼らの痛みそのものだ。しかし全身至るところにある傷は ひとつひとつ丁寧に手当てされている。どうも折れているらしい右足にもきちんと 添え木がしてあった。荒れ狂う海に放り出され、高波の合間を必死にもがいて いるさなか誰かに助けてもらったところまでは覚えているのだが、気を失う間際の ぼんやりとした頭ではその誰かがいまいち確かではなかった。もしかして、という 期待にも似た予感があるにはあったが、あの世に逝きかけた頭が見せた都合の いい幻でない自信がない。そうでないことを祈りながら冷えきった体を温めるべく ぱちぱち爆ぜる火にあたっていればやがて戸が開き、目を覚ましたんですねと その誰かであってほしかった声が嬉しそうに言うのだ。振り返ると海水のせいか 雨のせいかはわからないが、美しい黒髪がすっかり濡れていた。夢じゃなかった らしいと間抜けに緩む表情を見て菊はそんな男前、どうして隠してたんです?と 穏やかにふわりと笑んだ。そこでサディクは初めて己が仮面をしていないことに 気づき、あたふたと手で覆うと菊は傷の手当てのため勝手に外したことを詫びて 枕元に置いてあった仮面を示した。多少傷はついていたが問題はない。それより 男前と褒められて嬉しいやら恥ずかしいやら。赤らむ顔を仮面で隠し、サディクは やっとのことでほっと息をついた。何か深い事情がおありなのでしょう、怒らない のですか?と菊は問うが、とてもそんな気は起こらない。助けを求めたところで 見殺しにされてもおかしくない世の中だ、ノルマントンの例もある。おおっぴらに 口には出来ないが、あの暗い水のジャハンナムから救い出してくれた菊が神に 等しく見えるほどだ。言えば案の定、いけませんよ、あなたの神様に叱られて しまいますと諌められ、違いねェと頭を掻きながら苦笑する。それでも闇のなか、 炎のゆらめきを優しい目に映して穏やかに微笑む菊はサディクにとって神とも 違う、唯一無二の特別な存在に感じられたのだ。菊は雑穀を多量の水で煮た だけの食べ物と言うよりは飲み物に近い、けれど心のこもった熱い粥を渡して 別に収容されている乗組員たちにサディクが無事であることを伝えに行くという。 どうか俺の顔のことは、と縋った手に、菊はもちろん他言はしませんよと答えた。 「あなたと私の、二人だけの秘密ですね」 その秘密はサディクの宝物となった。それから百余年、胸の内に大事に大事に しまい込んだ記憶はいつ引き出しても新鮮で温かな喜びをもたらしてくれた。今も そうだ。花束を手に庭に降り立った客人を見、長いあいだ秘密を守り続けた菊は ようこそいらっしゃいましたねと破顔する。記憶の中の笑顔とぴたりと重なって、 サディクも素顔の笑みを晒した。あれからいろいろなことあった。借りを返したり、 また借りを作ったりもした。菊はサディクが仮面を置いてきたと知るや翳る表情に あからさまな落胆を滲ませて、もう秘密は終わりですかと言った。 「なァに、秘密はまた作ればいいんでェ」 菊が驚きに目を瞠る暇も与えず、くちづけの邪魔になるものも嫌がる素振りも ないのをいいことに、あなたって人は、神様へのキスで舌を入れるんですね、と いつぞやのやり取りを踏まえて呆れたように指摘されるまでサディクは新しい 秘密を存分に楽しむ。ああ本当に、彼が神でなくてよかったと、これからやろうと していることを思い浮かべると今度はどんな文句が出てくるだろうと胸が躍って 仕方がなかった。 |