※捏造信長注意!




 蒸し暑い夏の夜だった。障子を開け放った広い庭は月明かり、気の早い秋の
虫の声が煩わしくない程度に聞こえてくる。それもまた酒の肴だ。飛んで火に
入る何とやら、羽虫が行灯の火に飛び込んだのかジジジと短い命を焦がす音は
何とも苦い。ああなんと儚い命。しばしのあいだ、私は行灯から目を離すことが
出来なかった。会話の手綱を握るのはいつだって彼で、私は相槌を打つ役割だ。
彼が此度の切り口に選んだのはその羽虫だったようだ。
「国が滅びぬ限り老いず死なず朽ちず、一体どのようなものであろうな」
 独り言のように口に出してみせたが、疑問が誰に宛てられたものかは明確だ。
そもそも酒席には彼と私しかいない。初めはお濃の方もおられたのだが、あとは
ザル同士存分になさいませと彼女も相当の酒豪であったのに敵わないと知るや
早々に寝所に引っ込んでしまわれたのだ。引き際を見極めるのも必要とはいえ、
負けず嫌いな彼女はさぞ悔しかったに違いない。ザルと言われても仕方がない
酒飲みとしては苦笑いで詫びるしかなかった。そして私は、返答に困っている。
どのようなもの、と聞かれても生まれついてこうだったのだから深く考えることは
なかったのだ。
「…まあ、老いないわけではございませんよ。私とてあなたの膝の丈にも満たぬ
幼い頃がありましたとも」
 それは誠か?と尋ねられ、ええ千年近く昔になりますかねと答えると彼は渋い
顔をしてもうよいと、話にもならんとばかりにこの話題を終わらせるつもりのようで
あった。確かに千年の歳月は人には永すぎる。私ははぐらかすのを止めにして
彼の疑問に向き合うことにした。
「そうですね…好いた人もそうでない人も、みな私より先に死んでしまうのが嫌
ですね」
 どうせ気まぐれな彼のこと、最早私の話など聞いてはいないだろうと思いきや、
彼は予想以上の反応を見せた。何が可笑しいのか豪快に笑い出し、仮にも国で
ある私に対し、側女のように当たり前の仕草で空になった杯を向ける。やや複雑
ではあるものの、そこいらのおなごのようにお菊と呼ばわれることにも、彼に酌を
することにも随分と慣れてしまった。なみなみと注いだばかりの酒を一息に飲み
干し、彼はまた笑う。
「はっは!なんと、お菊にも好いた者がおったのか!」
 そんなことぐらいでこれほど笑う必要があったのかと呆れつつ、その言い草では
まるで私が人を好いたこともない無感情な人間だと思われていたかのようで甚だ
心外だった。だが実際のところはその通りなのだ。好いたと言っても好ましいと
いう意味ですよ、と注釈をつけるとやはりそうであろうと思ったわ!と彼は満面の
笑みで今度は手酌にて杯を空けた。こんな若造にこの私が見透かされていると
いう事実に少しの腹立ちを覚え、私も乱暴に杯に酒を注いでふと思い出す。
「そんなに不老不死に興味があるのでしたら富士の山にでも登ったらどうです。
その昔、時の帝が不老不死の妙薬を燃やしたそうですよ。燃え残りがまだある
かもしれません」
 私は杯を傾けながらくすりと笑んで教えてやった。不老不死の妙薬とやらが
存在するかどうかさえ私は知りもしないが、彼がおとぎ話など真に受けるような
男ではないのは知っている。私はただ富士の山のてっぺんまで無駄足を踏めば
いいと言いたかったのだ。それは彼にも無事伝わったらしい、同じように腹立ちを
抱えた顔で睨んでくるのを素知らぬ顔で受け流す。彼をこのように小馬鹿にして
生きていられるのはお濃の方かお市の方か私ぐらいのものだろう。その特権を
たっぷりと味わって私はそれも酒の肴にする。戦では鬼だ何だと恐れられる彼の
まなざしも効果がないとわかると彼は平静を取り戻し、また手酌で杯を空にした。
「まあよい。人間五十年、そのような永すぎる命は要らぬわ」
 吐き捨てるような彼の言葉に、私は少しだけ意外に感じた。不老不死までは
いかずとも、もし百年二百年と生き続けることが出来るなら彼の望む天下統一も
容易に果たせるだろうにと思ったのだ。けれど同時に、実に彼らしいとも思った。
己ひとり命が保障された戦など彼には似合わない。たくさんの血と痛みと大勢の
命を伴い、自らも傷つきながら道を切り開く、それが彼の生き方として相応しい。
たとえ夢半ばにして生き絶えようとも、それこそが彼の選んだ道だ。
「…それに、好いた者に先立たれるなど耐えられぬ」
 再び独り言のように零れた小さな呟きを耳にして、私は正体の知れぬ感情を
込めて彼をじっと見つめた。いまだ名のつけられぬこの感情。時折何かの形を
成そうとして、いつもあと一歩のところで逃してしまう。胸にわだかまるものが
何なのか、私はまだ答えを出せないでいる。しかしこの答えが出ようと出まいと
いつか彼もまた私を置いて逝ってしまうのだ。彼が人である限り、彼が彼である
限り、たとえ彼が武将でなかろうとも、今が戦のない平和な時代であろうとも、
抗えない時の流れはやがて彼を攫っていってしまうのだ。好いた人もそうでない
人も、何度も何度もそうしてみな私を、私を。内なる激情をおくびにも出さず、私は
ただ黙して酒を流し込んだ。
「ところでお菊、儂はお主の好いた人に入るのか?」
 重い沈黙から彼は一転、間抜けな表情で私に問いただす。底のないザルにも
とうとう酔いが回り、調子に乗ったときの彼だ。後先考えずにがばがば飲むから
そうなるのに、と苦々しく思いつつも早めに潰してしまうのが眠りに就くのに最も 近道なので好きにさせておいたのだ。彼は急激に間合いを狭め、密着したかと
思うと今度は馴れ馴れしくも私の肩に手を回し、酒臭い息の届く近距離でのう、
お菊?どうなのだ?ん?としつこく聞いてくる。どちらの答えを用意しても面倒だ。
いい加減酔っ払いが鬱陶しくなった私はおもむろに立ち上がり、酒で覚束ない
足下をすくって彼に尻餅をつかせてやった。畳の上でみっともない姿を晒した
彼の恨みがましい目をにこやかに見下ろし、とどめにとあかんべえをして言って
やる。
「あなたなんか、大っ嫌いです!」

 あの日と同じような蒸し暑い夜に、虫の声、手酌の酒。今はもう、あの感情の
正体にも気がついている。あのときの私は真逆のことを言ったのだ。行灯に飛び
込んだあの羽虫。人の命は確かに夢幻のように儚く、そのくせ私の胸を今でも
焦がし続ける。





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