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いつまで経っても決着を見ない論戦の末に会議は休憩時間になだれ込んだ。 見えない圧力に押し潰されるように重く痛む肩と頭に手を当て、菊は長い長い ため息をつき、確か頭痛薬なら持っていたはずだと思い出して資料が詰まった 重いかばんの中を探る。そうして無事錠剤のシートを発見してすぐ数錠を口に 含んでから、ああ飲み物を用意していなかったと今更気づいた。いつのまにか こんな当たり前の段取りにさえ気が回らないぐらい疲労していたらしい。唾液に わずか溶けて独特の苦味を口内に広げ続ける頭痛薬を一刻も早く飲み下すべく ドリンクコーナーに向かおうと立ち上がった瞬間、突然すっと横から水の入った 紙コップが差し出された。手の主をぽかんと見上げてみればトーリスが見慣れた 人の良さそうな顔で微笑んでいて、良かったらどうぞと紙コップを直接手渡した。 菊はありがとうございますと礼を言って錠剤を受け取った水で飲み下し、ようやく ひと安心したところで不意に疑問が頭をよぎる。ドリンクコーナーはここから遠い。 菊が薬を飲もうとしているにも関わらず飲み物を用意していないことに気づくには 距離がありすぎて不自然だ。それをどう切り出していいのかわからずに戸惑いを 表情に浮かべているとトーリスは事もなげに言った。菊さんがずっと眉間に皺を 寄せていたから具合でも悪いとしたらきっと休憩中に薬を飲むだろうと思って、と 菊の体調だけでなく、その行動にまで気を配ってくれていたのだった。菊はこの 過ぎるほどの気遣い屋のトーリスを好ましく思った。薬とトーリスの思いやりの おかげで頭痛は徐々に軽くなったが、肩こりは頭痛薬ではいかんともしがたい。 家にいるならベタベタ湿布を貼ろうとも遠慮は不要ながらあのどうにも強すぎる 臭いを会議の場まで持ち込む気にならなかった。仕方なく両肩を代わる代わる 己の手で揉み解していると、そのまま菊のそばでコーヒーを飲んで雑談などして 休んでいたトーリスは俺、揉みましょうか?と声を掛けてきた。さすがにそこまで してもらうなんてと菊は最初遠慮していたが、こう見えても俺、マッサージ得意 なんです!とトーリスが何やら妙に張り切っているのできっぱり断ることは出来ず 結局は背中を委ねることになった。トーリスが言う通り、確かに凝りきって鉄の ように硬い肩を柔らかく解す手つきは慣れていて巧みだった。かつては肩こり なんてものは日本人特有の症状などと言われていたものだが、肩こりの概念が なかっただけで実際は海外でも肩こりに悩む人々は多いのだ。トーリスの自宅 近くに住む齢九十を過ぎた老婦人もそのクチで、トーリスは暇さえあれば肩揉み するためわざわざ相手の家を訪ねることもあるのだとまるで実の祖母のように 親しみのこもった口ぶりで菊に話した。優しいんですね、トーリスさんは。背後で 一生懸命長年凝りに凝った頑固な肩こりと格闘するトーリスに菊は振り向いて 笑いかける。すると途端にトーリスの顔が見る見るうちに赤くなって、お…俺、 そんなんじゃ、ない…なくて、としどろもどろに反論した。初心な反応もなんだか 可愛げがあって和んでしまう。菊にとってトーリスは好青年という印象しかない。 しかもこんな反応をされては。くすくすと菊の忍び笑いに若干トーリスの手の力が 緩んだところでこれ以上は申し訳ないと肩揉みを中断させた。それでも充分に 肩は軽くなった。そこいらの湿布以上の効き目だ。人の手の温かさ、優しさに 勝るものはない。本当にお上手ですね、ありがとうございますと重ねて礼を言い、 代わりに何か私があなたのために出来ることはありませんか?と菊が尋ねると トーリスはものすごい剣幕で菊さんは軽々しくそんなこと言っちゃ駄目ですよ!と あたりをきょろきょろ窺いながら口元を覆われる。菊にはその言動の意味がよく わからずそんなに変なこと言いましたかね、と首を傾げた。 「こんな俺ですけど、誰にでもこうってわけじゃないんです!特にあなたには… し、下心だって…ある、んですから…」 尻すぼみに声量が小さくなっていく声に再び見上げた顔は先ほど以上に赤く 染まって、まるでゆでだこのようだった。件の老婦人とさほど変わり映えもしない だろう年寄りになんと純情な思いをぶつけてくるんだろうと菊は微笑ましくさえ あった。こんな風に何か思惑や策略など余計な混じり気のないまっすぐな感情 なんて随分と久しぶりだ。菊は温かい思いやりや優しさ以上に熱のあるものを 分けてもらったような気がして何だか嬉しくなり、では今度、お休みのときでも よろしかったらうちにいらしてくださいと招待した。 「トーリスさんの好きな格闘技のチケット、一番いい席を手配しておきますから」 菊がそう言って微笑むとトーリスは反射的にガッツポーズをしたかと思いきや、 急に緊張したようなぎこちない口の動きでそ、それ…は、お泊り…って、こと… ですか?と聞き返した。ええお望みなら何泊でも、と笑顔で答えるとトーリスは 内側から沸き起こる叫びを抑えるように今度は己の口元を覆って一時は呼吸すら 止めてやっとのことで落ち着きを取り戻し、喜んでお邪魔させていただきます!と はきはきと応じ、では!と礼儀正しいロボットの動きで去っていった。その直後、 廊下のはるか彼方からいよっしゃあああ!と聞き覚えのある雄たけびが聞こえて 菊は笑みを禁じ得ずにいた。あの雄たけびの主はおそらくトーリスに違いない。 またもくすくす笑って、彼が持ってきてくれた水の残りをほんのり甘く飛沫も淡い 炭酸飲料のように飲み干し、錯覚の清涼感に心の重みもどこかに消え去るのを 感じていた。 |