聞き慣れぬ遠い犬の鳴き声が聞こえる。ご近所さんで犬を飼っているお宅は
ほとんど把握済みで、朝夕の散歩途中に遭遇しては同じ愛犬家として交流を
深めることも多く、名前や性別や犬種や鳴き声の特徴など、大体のことは知って
いるはずだった。それがこの鳴き声に限ってはまるで覚えがない。新しく越して
来たお宅があったのか、それとも菊の把握する範囲外から今日はたまたま足を
伸ばしてみたのか。どちらにせよ日も暮れる手前で、菊もそろそろ夕飯の材料の
買い物がてらぽちくんの散歩に行こうと思っていたところだ。もし運良く鉢合わせ
出来たらぽちくんの良いお友達になってくれるといいなあ、そう思いながら菊は
よいしょと重い腰を上げてリードを取りに行こうとした。するときゃわんきゃわんと
厳しく躾けずともおとなしく飼い主に忠実で無駄吠えなど一度もしたことのない
ぽちくんが激しく鳴き出したのだ。おや?と菊は異常を感じて縁側に出てみる。
ぽちくんは先ほど鳴き声がした方角に向かってしきりに吠えていた。そして菊に
気づくと今度は菊に対して懸命に何かを訴えかけるようにきゃわんと鳴く。特別
何かに対し警戒しているというわけではなさそうだ。どちらかと言うとこの様子は
ねえ知っている人が来たよ!といったかんじで、嬉しそうに尻尾を振って到着を
心待ちにしている。今日は特に来客の予定はなかったのですがと思いつつも
菊はサンダル履きで庭に下り、生垣の上に身を乗り出してあたりを窺ってみる。
そのうちぽちくんの鳴き声に呼応するようなキャンキャンというまだ子犬らしい
鳴き声が徐々に近づいてきて、直後足先だけが靴下を履いたように白くもこもこ
した子犬、と言うにはぽちくんよりも随分大きい黒い犬がすぐそばの角を曲がり、やがてリードの先を握る人物が姿を現して「Hi!」と菊に気づいて陽気な挨拶を
する。どうりでぽちくんがよく知っているわけだ。「ぽちくんの新しい友達を連れて
きたんだぞ!」とアルフレッドは無邪気に笑う。菊はその言葉に返事もしないで
すぐ居間に戻り、テレビのスイッチを入れてどこかニュース速報をやっていないか
全チャンネルを回した。しかし幸いにもそれらしき報道はどこもやっていなかった。
『ホワイトハウスに何者かが侵入し、ファーストドッグが連れ去られる』などという
ニュースは。あるいは犯人が誰かわかっているから報道規制を敷いているのかも
しれない。そのあいだにアルフレッドとファーストドッグ御一行は庭に入り込んで
「ほら、ぽちくんもボーちゃんと一緒に散歩したがってるんだぞ!行こうよ菊!」と
飛んだり跳ねたりどうやらお互い好印象のようで嬉しそうにはしゃぎあう白と黒の
愛らしい二匹と菊を交互に見つめながらアルフレッド自身にも左右に振りまくる
フサフサの金色の尻尾が今にも見えそうな期待に満ちた目をして催促してくる。
「…あのですねえ」と菊がまず何から説教したらいいか迷いため息をつくと、その
目に宿る感情ががらりと変わった。「…菊、怒ってる?」こういうときの青く 広い
アメリカの空を思わせるアルフレッドの瞳は体の大きさがまるで違うのにCMで
見たチワワを思い起こさせる。アルフレッドは図体といい性格といい、どう見ても
大型のゴールデンレトリバーあたりだというのに。菊は何だかもう説教する気も
失せてしまった。はあ、と再度ため息をついて「怒らないですけど、散歩に行く
前にちょっとだけ電話を掛けさせてくれませんか」と猶予をもらうのが精一杯だ。
アルフレッドは満面の笑みで早く終わらせて来るんだぞ!と了承して犬たちと
戯れていた。菊が古い黒電話でジーゴロジーゴロやっている最中もキャンキャン
きゃわんきゃわん楽しそうな鳴き声と、それ以上に楽しんでいるような「Yes, We
can!お散歩デートだぞ!イエーオッバーマ!」なんてアルフレッドの声がする。
ええとこれからぽちくんとボーちゃん連れて散歩して、桜や菜の花が咲く美しい
川べりまで遠回りして、そうだボーちゃんはごはん何がいいですかね、おうちと
同じものを用意出来ればいいんですけど、万が一ご近所の方と出会ったらすごく
似てるんですけど全然別の犬なんですとか何とかうまく言い訳をして、それから
それから、ああアルフレッドさんのごはんは…適当でいいや。そんなことを考えて
いるうちに電話口に目当ての人物が出た。やはり相当に慌てているようで菊は
自分のせいではないものの一抹の責任を感じ、ほぼ習慣で顔の見えない相手に
頭を下げ、「ああ本当にすみません、明日には二匹ともそちらにお返ししますから
と上司さんにお伝えください」と告げた。





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