きっかけは会議の休憩時間中、他愛ない雑談の合間に最近フィンランドでも
日本食が流行っているというティノが言い出したことだった。世界中で日本食が
もてはやされつつあるのは菊も知っているが、こうして目の前で話題にされると
嬉しいやら恥ずかしいやらでどうにもいたたまれない。顔を赤らめる菊に対し、
ティノはいいなあ、羨ましいです、僕のとこの料理なんてイギリス料理に次いで
まずいなんて言われちゃってと寂しげな表情をする。何かフォローしてあげたいと
思っても実のところ菊はフィンランド料理についてほとんど何も知らない。という
よりも料理と言っていいのか、あの世界一まずいという飴ぐらいしか具体的に
思いつくものがなかった。一度好奇心から食べてみたことがあるがとても形容
しがたい強烈な味だったのはよく覚えている。だがそれだけだ。二次元と食事
には並々ならぬこだわりを持つ日本人として菊は途端に焦りを感じた。未知なる
料理に眠る可能性を見過ごしていいのかと食いしん坊の血が騒ぐ。待てよ?と
これは絶好の機会ではないかと思った菊はその場でティノにフィンランド料理を
教えてほしいと頼み込んだ。思いもよらぬ依頼にもティノは嫌な顔ひとつせず、
むしろうちなんかでいいんですか?と謙虚な姿勢を崩さない。それがかえって
好感を持たせて、菊はええ是非!と控えめな日頃とは別人のように積極的に
押していく。結果ティノは快諾し、代わりに菊から日本料理を教えてもらう約束を
取りつけた。そうして連絡を取り合い、日程を合わせてティノのほうから菊の家を
訪ねることになった。元は同じ枢軸同士だったが、特別親しく行き来していたわけ
でもないのでティノにとって純和風の菊の家や庭は新鮮なものに映る。許可を
得てしばらく見物させてもらってからやがて本来の目的のため、必要な材料を
二人で買いに出かけた。あらかじめ簡単な打ち合わせをして、日本では簡単に
手に入らなそうな材料は持参してもらったがそれほど大荷物ではなさそうだった。
近所のスーパーでほとんどの材料を調達し、各自自前の割烹着やエプロンを
身につけて台所に立つとまるきり主婦の料理教室の様相だ。そんなことは双方
想像だにせず、互いの国の料理について和気藹々楽しく会話しながら手際よく
調理していく。ティノも菊と同じく普段から料理に慣れているらしく、どちらも一の
説明で十を知る優秀な生徒だった。すりおろしたじゃがいもを練りこんだミート
ボールやバナナのケーキを作り終え、前の晩に仕込んだという塩と香草に漬け
込んだ生のサーモンを切り、用意してきたトナカイ肉を程よく焼いてティノ特製の
リンゴンベリーのソースを添えるとフィンランド料理披露は終わる。菊がほぼ同時
進行で向こうでも材料が揃うだろうちらし寿司や肉じゃがや天ぷらなどを教えると
食卓は非常に賑やかなものになった。温かいうちに食べましょうということで早速
席につくとティノは礼儀正しく両手を合わせいただきます、でしたよね?と日本の
挨拶まで勉強していてさらに菊を喜ばせた。さすがに箸の扱いに苦労していた
ようなのでナイフとフォークを持って来ましょうかと尋ねても滅多にない良い機会
ですから是非覚えて帰りたいんですとティノは慣れないなりに箸で奮闘していて
微笑ましかった。誰とは言わないがどこかのわがまま放題の誰かさんにも少しは
見習ってほしいものだとつくづく思う。本場の人間に学んだ日本料理はやはり
自国で食べたものとはまったく違うらしく、ティノは終始感心するばかりだった。
菊もまた初めて味わう本場のフィンランド料理に意外な発見をする。臭みの強い
イメージのあるトナカイ肉は意外に癖がなく、甘いベリーのソースにもよく合う。
まずいと評価をされた理由が菊には一向にわからない。菊がよく知る某人物の
作るイギリス料理と比較するのが失礼ですらあると思う。率直においしいです、
トナカイ肉こっちにも流通しないですかねえと感想を述べながら次々箸を進めると
ティノはやや照れながらも嬉しそうにありがとうございますと笑った。ティノさんは
いいお嫁さんになれますねと冗談を言ってみると菊さんこそ!と笑顔で返されて
しまった。非礼を詫びつつティノさんの奥さんになる方は幸せですねと賞賛の
言葉を訂正するとティノはじゃあ菊さん、お嫁にきませんか?とにこにこしていた。
これもまた冗談かと思いきや、ティノには微塵も撤回する気配がなく人畜無害の
人の良さそうな笑みを浮かべたままだった。菊はティノという人間をちょっとばかり
誤解していたのかも知れないと反省しながら、はははは、年寄りをからかっては
いけませんよティノさんと乾いた笑いでごまかすように食事を進めようとするも、
それで、きませんか?どうですか?とティノにさらに質問を重ねられて冷や汗を
かくしかない。その後もこの調子で押し切られ、嫁入りはとりあえず保留として
近日中のフィンランド来訪を約束する羽目になったのだった。もちろん、そこでも
押せ押せの求婚が待っていることは言うまでもない。





ブラウザバックでおねがいします。