ひやりと冷たい空気が足元から這いのぼるように全身を撫でていき、イヴァンは
わずかに身を竦ませた。元々寒さには慣れっこだし暖房もあるにはあるのだが、
大体古い日本家屋というものは隙間風が多すぎる。一方、家主を見ればこっちが
寒くなるぐらいの薄着だというのに平然としている。菊は夏場だってそうだった。
じっているだけで汗ばむような苛烈な陽射しの下でも無防備に着衣を乱したりは
しない。心頭滅却すれば火もまた涼しを是とすれば逆もまた然りというわけなの
だろうか。イヴァンには理解できない境地だ。最初からそれほど多くはなかった
会話に降りていた沈黙のなかで彼はふと目を閉じて耳を澄まし、ああ雪が降って
きましたねと言った。雨粒と違って吹けば飛ぶような芯まで冷える夜の軽い雪は
降り積む音自体存在しないか、もしくはこれまで意識したことがない。だが雪の
降る夜独特の静けさというものがあるのはイヴァンも知っている。それはぞっと
するほどの静寂で、星々さえも凍えて眠っているかのような虚無だ。より際立って
きた寒さに今日は早く休んでしまいましょうね、と入浴の支度をすべく菊は立ち
上がった。一緒に入ってくれるの?と甘えるように尋ねれば、そんなわけない
でしょうとにべもない答えがぴしゃりと返ってきた。菊のイヴァンへの態度は徹底
して冷たく、乾いている。まるで真冬の朝のようだった。

 慣れない布団でイヴァンは夢を見た。あの冬将軍が何もしていない菊にまで
極寒の冬の呪いをかけてしまうのだ。日本にだってひどく冷える冬もあるだろう
けれどシベリアの何もかもが凍りつき、生き物たちもみな死に絶えてしまった
かのような寂しい冬はきっとやって来ない。美しかった景色はすべて白い闇に
埋め尽くされ、雪を降らせる白い雲と雪原は境目を曖昧にしてしまう。どこまで
行っても白。白。白の世界。終わりのない永遠の沈黙。もはやどこへ向かって
いるのか、誰を探しているのかもわからない。美しい季節の移り変わりを愛し、
眠りの冬もまた愛する菊はいない。イヴァンはひとりきりだった。

 物音で目が覚めたイヴァンは大きな体躯を迷子のように左右に振ってあたりを
見回した。そこに夢で見た白い闇はなかったが、布団から這い出て障子を開けて
みると庭には雪が厚く降り積もっていた。春夏秋とにぎやかだったそこは庭木の
殺風景な雪囲いと南天の赤い実を残すのみですっかり色彩を失っている。トン
トントンとイヴァンを起こしたリズミカルに聞こえる音の正体は包丁で何かものを
切っている音のようだった。米を炊くときの独特のにおいが客間にまで届いて
いる。菊はおそらく朝食の用意をしているのだろう。イヴァンは出来上がるまで
ちょっとだけ、とそっと身支度を整えて本田邸を忍び足で抜け出した。白い雪に
覆われた日本の古い風景を見たかったからだ。車通りの少ない水の噴き出す
融雪道、じっと雪の重さに耐えているかやぶき屋根、見渡す限り雪原のような
田んぼ、時々大きな音を立てて枝から雪を落とす杉林、先客が歩いた足跡の
残る古いお寺、屋根のおかげで難を逃れているお地蔵様、冬毛で丸々とした
雀たち。騒がしい都会から少し離れたここには見慣れない珍しいものがたくさん
ある。白く化粧をした山並み、雪と鮮やかなコントラストを形作る朱塗りの鳥居、
賑やかな除雪車、カラフルな傘をそれぞれ差して学校に向かう子供たち、軒先の
赤い目をした雪のうさぎ、作者不詳の変な顔をした雪だるま。ひと通り歩き回って
満足して戻ってくると、菊は相変わらずの薄着で門前に立っている。イヴァンの
ごまかし笑いに眉根をひそめてもうお帰りになったかと思いましたよ、と少しは
寂しがってくれたっていいのに戻って来られなくても別によかったんですがね、と
菊はつれないことを言う。それでもちゃぶ台にはきちんと二人分の朝食が並んで
いたのだからイヴァンは笑みを隠せない。さっさと食べちゃってくださいね、あ、
その前に手洗いうがいをお忘れなく。菊は注意を忘れずに再度台所へと向かい、
イヴァンははあいと子供のような間延びした返事で洗面所に行き先を変えた。
冬ならではの日本の風景もまた美しいけれど寒いことに変わりはない。ただ菊と
いう存在が何よりもイヴァンを温める。だからこそイヴァンは冬の日本をも美しいと
感じることが出来るのだろうと思っている。菊の作る朝食はとてもいいにおいだ。





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