※ログ30、31の対のようなものです


 さながら魚河岸の魚のように手足を荒縄で括られ地べたに転がされた珍しい
東洋の人間を見下ろし、まだ世の中を知らぬ幼い彼は通詞を通して物珍しげに
質問を投げかけた。「君は、人形?それとも、人間?」売り物であった東洋の
人間は「人間です。でも買い主が望むなら人形だろうと何だろうと、どのように
扱っても構わない。そういう人間もいるのですよ、殿下」奴隷は自嘲気味に笑い、
そう口を利いた。もちろんそれは許可されたことではなかったので即座に手酷い
罰を受けたが、殿下と呼ばれた彼が暴力を嫌ったため中断され、咳き込んで血を
吐く奴隷の手当てを命じた。「じゃあ君は、俺の友達にも、なってくれるの?」
二度目の質問に奴隷は「あなたがそう望むなら」と答えた。それから十年もの
月日が流れるとヘラクレスも何故菊がそのような扱いを受けていたのか、理解
出来るようになる。奴隷というのはそういうものだったのだ。あのときもし自分が
軽率に菊の死を望んだりしていれば、この目の前で菊は当然のように殺されて
いただろう。今ならわかるその恐ろしさにヘラクレスはくちびるを噛む。同じ人間で
ありながら人間として生きる権利を奪われた者、そのひとりが菊だった。明の
奴隷船から買い受けた黒髪黒目の東洋人ということで、奴隷商人はわざわざ
スルタンの息子であるヘラクレスに引き会わせたのだ。この西洋でも東洋でも
ない国においていつの頃からか黒髪黒目の東洋人は希少価値を持っていた。
遠い異国の珍しい動物のように飼うなり、性の捌け口にするなり、初めから貢物
として何もかも好きにさせるつもりだったのだがヘラクレスの言葉にはさしもの
奴隷商人も呆気に取られた。しかしながらヘラクレスの住まうハレムの一画は
男性としての機能を持つ者ならばスルタンかそれに連なる血筋の者でなければ
立ち入ることすら許されない。だが菊は男だ。どういう名目でそばに置くにしろ
そのままの姿ではいられなかった。そこで菊の小柄さが活きた。ヘラクレスに
特別目を掛けられ、幾重にも高価な絹のベールをまとうその側女は早いうちから
次代のハレムの女主人を予感させてはいたが、素顔と正体、本当の役割を知る
のはヘラクレスの他は誰もいない。当初は望み通り菊は良き友になってくれた。
時が経つにつれて少しずつ感情は形を変え、今では誰の目もなければ花嫁の
ベールのごとく自らの手で恭しくそっと外して、中庭に咲いた花を摘んできては
菊の髪を飾る。背までまっすぐに伸びた艶やかな黒髪に彩り鮮やかな花々を
飾ると漆黒が引き立って美しい。ヘラクレスのお気に入りだ。「菊、かわいい」と
大人になっても舌足らずのヘラクレスの褒め言葉はその分いつも直球すぎて、
あからさまに表現するのを避ける国で生まれた菊には許容量を超える羞恥を
もたらす。赤く染まる顔もまた格別愛らしいことを告げると菊はベールで再び顔を
覆い隠してしまった。「だめ、もっと見せて」と子供のように乞われれば菊に否は
ない。おずおずと露にする赤らんだ顔にスキンシップ過剰なこの国の愛情表現に
則って「俺の菊、俺のかわいい菊」とヘラクレスは何度も何度もくちづけを贈る。
かつては友達が欲しかった。それは確かだ。周りの人間は誰も彼も皆スルタンの
息子として何重もの隔たりを置いてしか接してくれなかった。だから純粋に友達と
いうものに憧れた。相手は誰でもよかった。見目の良し悪しも関係ない。誰でも
いいから手と手を直接繋げる相手が欲しかった。それがいつしか菊でなくては
駄目になった。友達でもなく、唯一の存在。「俺、菊が好き。ねえ、菊は?」狭い
ハレムの檻に閉じ込めて、性別を偽らせて、腕の中から出さないで、そんな自分
勝手な自分をどう思っているのか最近ヘラクレスは聞くのが怖い。怖いから余計
何度も聞かずにはいられない。「私も…お慕い申しておりますよ、あのときから
ずっと」機嫌を取るためのへつらいなどではなく、実際あのときからヘラクレスは
菊にとっても唯一の存在だった。ひとりの人間として菊を見、欲しがってくれた
のはヘラクレスだけだ。菊はヘラクレスが望むならなんだって叶えてやろうと
思っていた。だから多少の不自由を強いられる今の暮らしもたいしたものでは
ない。たとえ結ばれぬ運命だろうとも菊はヘラクレスのためなら運命の相手に
だってなりきってみせるだろう。

「で、そいつがお前が正妃に迎える"女"だって?」
 金や銀、鮮やかな色彩もさまざまな宝石を惜しみなく施した玉座に豪快に足を
組んで座り、ヘラクレスの父である現スルタン、サディクは白い仮面をつけ表情の
読み取れない風貌でヘラクレスの後ろに楚々と控える菊を見据えてクックックと
笑った。顔の作りはほとんどわからぬがその肉体は菊の想像よりはるかに若く
たくましく見える。あらかじめ人払いもしてあるのに仮面を外さない意図はどこに
あるのか、菊には推し量ることさえできない。ただ突き刺さる視線の強さ、鋭さに
スルタンの名が伊達ではないことを知る。この男を前に偽り続けることが果たして
可能なのか、菊は身を竦ませる。サディクはひとしきり笑ったあとに「まあいい、
どうせ世継ぎなんてえモンは側室にでも産ませりゃあいいんだ」と言った。菊は
唖然とした。何もかも仮面の奥の瞳は見抜いてしまうらしい。そこでサディクは
ヘラクレスのみを下がらせる。謁見の間には菊とサディク、二人きりになった。
サディクはしげしげと菊を眺め、無言で手の動きだけで菊を呼び、躊躇する菊の
細腕をつかむとぐいと強引に引き寄せた。簡単に腕の中に収められ、もう片方の
手で顎を押し開いて貪るようにくちづけられる。ヘラクレスは決してこんな乱暴な
真似はしなかった。時々力の加減がわからず自分自身戸惑っているようなことは
あっても、こんな風に力ずくで組み伏せるような無理強いはしない。菊は本来この
ような屈辱に耐えられない男だ。思わず手が出て頬を張ると仮面が落ちてカラン
カランと硬質な音を立てる。その素顔はやはりヘラクレスほどの年頃の子を持つ
ような年齢には見えなかった。畏怖を交えたまなざしにフッとサディクは笑った。
「…あれは、俺の子じゃねえんだ」サディクは菊の無礼を咎めることなく唐突に、
おそらくヘラクレスでさえ知らないこの国の最高機密であろう事実を明かした。
この世にスルタンに手をあげて何人の人間が生き残っているだろうかと恐れを
抱きつつも菊は口を閉ざした。沈んだひどく空虚な声に耳を傾ける。「俺の愛した
女は出会ったときにゃア他に男がいて、すでにあいつが腹ン中にいた。仕方ねえ
から俺の子だってことにしてハレムに閉じ込めたのさ」落ちた仮面を拾いながら
滔々とサディクは語る。「罰が当たったんだろうなァ。女はあいつを産んですぐ
死んで、以来俺は子に恵まれなかった」それは菊も、誰しもが知っていること
だった。血のつながりがなくてもサディクの跡を継ぐ者はヘラクレスしかいない
のだ。仮面の顔を取り戻したサディクは先ほどの荒々しい手つきから一転、菊の
頬を優しく撫でた。「すまねえ、あいつを大事にしてやってくれ」と何千何万もの
人々の上に立つスルタンとは思えない、どこにでもいる普通の父親のような顔を
してサディクは言った。自分を遠く、懐かしそうに見るサディクの真摯な目つき。
もしかするとヘラクレスが自分を選んだのはこの顔に亡き母君の面影を見出した
のかもしれないと菊は思った。そうだとすればサディクの突然の暴挙にも納得が
いく。けれどそんなことはどうでもよかった。これから菊は男の身を隠し皇太子の
正妃として茨の道を歩いていかなければならないのだ。菊は頭を下げて、先に
退室したヘラクレスを追う。もはやきっかけや理由など瑣末なことだ。サディクの
ためにも菊はヘラクレスにこの身この命捧げようと改めて誓うばかりだった。





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