|
※ログ69から分岐した別エンドです 菊花の正体を知ってもアドナンの心は変わらなかった。ちょうど女の甲高い声 には辟易していたところだ、妾にはできないがしばしの暇つぶしにはなるだろうと 半ば脅迫のような形で身受けの約束を取り付けてしまった。菊花はただの娼婦 ではない、本来ならば実の弟である菊を渡したくない店主であったがさもなくば アドナンに逆らった咎で責めを負い、菊を含めてすべての財産を取り上げられた 上でこの町を追い出されるのが関の山。どちらにせよ了承するほかなかった。 それを聞いて焦りを感じたのはサディクだ。ひとたび父の所有物となったものに 手出しするのはご法度。たとえ親子といえども厳しい罰が下るのが掟だ。姿を 見ようものならその目は潰されるだろう。口を聞こうものならその舌は抜かれる だろう。肌に触れようものならその手は切り落とされて鱶の餌とされるだろう。 とにかく独占欲が強いのが一族共通の特徴だ。サディクはでっぷりと肥えて 脂ぎった醜い中年男に触れられる菊花の姿を思い浮かべて歯噛みする。品の 欠片もない、ごてごてとただ粒が大きく色が派手なばかりの宝石を並べ立て、 丸々と太った芋虫のような指先が絹糸のような菊花の黒髪を梳き、絞りたての 山羊の乳のように白い肌をいやらしい手つきで撫で回し、赤く色づいた果実の ようなくちびるを穢すことさえ厭わない卑しい男。それが血を分けた父であろうと はらわたが煮えくり返って到底許せるものではなかった。菊花は最近になって ようやくサディクに笑いかけてくれるようになったのだ。質の高い客を吟味する ようなそんな遊女の笑みではない、春の花が綻ぶようなサディクの心を捉えて 離さない笑みを。『あなたがいかに美しいものに私をたとえたとしても、めくらの 私にはそれを褒め言葉と知りようもないのですよ?』菊花がそう笑うとサディクは 菊花を褒めるのに用いたものすべての美しさを説明するのに躍起になるのだ。 絹糸の光沢や山羊の乳の混じりけのない白、さまざまな春の花のそれぞれの 色、形、サディクの生きる世界の中でそれらがどれだけ価値のあるものなのか 切々と語る。そうするとサディクがあまりに必死な様子なので、菊花はくすくすと 堪えられないとばかりに笑う。その表情ひとつがどれだけサディクの心の中に 鮮やかに焼きつけられるのか、菊花にはいずれの美辞麗句を用いてもきっと 理解してはもらえまい。サディクがこれほど深く菊花に恋焦がれているのを父は 知っているのか、知っているからこそ父は菊花を奪っていくのだろう。サディクは 今ほど父を憎く思ったことはない。病に伏した母が召されるときでさえ他の女に 現を抜かしていた父に何度殺意に近い憎しみを抱いたことか。しかし今の怒りは その憎しみですらはるかに凌駕する。アドナンは己の邸宅に菊花を引き取る前の 晩、遊郭で最後の宴席を設けた。そこに同席を命じられたサディクは自身の爪が 手のひらに食い込み血を流すほどの更なる憤怒を味わった。アドナンは菊花に 肌の色が透けるような薄手の赤い布一枚をまとわせたのみで菊花本来の優雅な 舞いではなく、男を誘う淫婦そのもののような卑猥で下劣な踊りを強いてその 正体を嘲笑と共にサディクに見せつけたのだった。その体は女のものではない。 けれどサディクは菊花が菊という名の娼婦でも何でもないただの男であることを とうに知っていた。知っていて惚れ抜いているのだからサディクはまだいい、だが そうと知らぬはずの菊の心に刻み付けられた屈辱と絶望は果たしてどれほどの ものだろうか。菊花は能面のような表情を貼り付けて、せめてサディクの存在など 知らぬような素振りを通そうとしていたが手足の震えは隠しようもなかった。帰る 間際、そっと振り返れば幕の陰で菊は声を殺して泣いているようだった。今宵の 宴席はこれから菊がこのような扱いを受けること、アドナンが飽くまでいつ終わる とも知れぬ長い月日をただただ惨めに生きねばならぬことを骨の髄まで叩き込む ためのものだったのだ。その悲しみをその声なき声からサディクは汲み取って、 激情は殺意へと移り変わる。サディクはその夜、寝入った父を襲撃した。ただし 罪悪感のひと欠片すら菊には背負い込ませたくはなかったので深手を負わすに 留めたが、殺しても飽き足らないというのが本音であった。その後、サディクは 宴席の後始末も済んだ遊郭に菊花ではなく菊を貰い受けに向かった。菊は己の 寝所に逃げ込むようにして掛け布に包まっていたがまだ眠ってはいない。夜が 明ければ己の身はアドナンのものとなる。眠れるはずがなかった。自分が男で あることもサディクに知られてしまった。あのような恥知らずな舞をして、天性の 娼婦のごとく振る舞い生きていかねばならないことをまざまざと恋しい男の前で 明かされてしまった。いっそ死んでしまいたい、行灯の明かりのもとで忍ばせた 懐刀のきらめきをじっと見つめる。そこに戸板を叩くものがあった。慌てて身なりを 整え、そっと開いた隙間から仮面から覗かせたその奥の瞳は未練が生み出した 願望ではなくサディク以外の何者でもない。めくらの偽りに乗じて、いつもじっと 見つめていたあの茶褐色の瞳。菊が何か言うより早く「俺ァ全部捨ててきたぜ、 だからアンタも全部捨ててくれ」と告げた。菊の返事は頷きひとつで充分だった。 一時は触れるのもためらわれた手をしっかり伸ばし、菊はその首に縋りついた。 のちの調べで、この二人以外は何ひとつ町から消えた形跡はなかった。二人で 生きるため逃げたのか、あるいは二人で死ぬために逃げたのか、あとに残された 者にはわからない。ただ商売柄色事をよく知る店主は愛する者のかいなに抱き 留められるその一瞬が永遠にも等しいことを伝え聞いている。だから愛する弟が 生きていようと死んでいようと、彼の永遠は疑うべくもない。店主はあの一件など 初めからなかったような顔で今日も女たちを取り仕切る。 |