※史実ネタ注意!




 こんなことぐらいで国である自分が死ぬはずもないとわかっていながらも母なる
海の残酷な仕打ちは容赦なくアーサーをも飲み込もうとしていた。海水を吸った
軍服の水底へといざなう力は思いのほか強く、重油混じりの波は息をする暇も
与えてくれない。力尽きた同胞の兵たちがひとり、またひとりと波間に消えていく
のを何もできずにただただ無力に見守るしかなかった。そうして無限とも思える
長い時間が過ぎ、やがて大きな船影が見えてきた。湧きあがった希望はしかし
一瞬にして潰えた。それは敵艦の姿だった。甲板には忌まわしき旭日旗を背負う
白い軍服が居並ぶ。一斉掃射があるものと死に至るほどの痛みを一時は覚悟
したが飛んできたのは弾丸ではなく、アーサーさん!と今や耳に懐かしいすら
感じるあの声だった。「つかまってください!」身を乗り出して差し伸べられた菊の
手に残されたすべての力を振り絞ってアーサーは触れた。だが長いあいだ海に
漂い続けた体は疲れきってうまく力が入らない。重油のぬめりも容易には救済を
許さない。菊のほうも大の男ひとりを易々と引き上げるほどの腕力はなかった。
このままでは菊までも海に引きずり落としてしまう。そう思った瞬間、アーサーは
思わず握る手を緩めてしまった。だが菊は離れかけたアーサーの腕を今度は
両手でしっかりとつかんだまま決して離そうとしなかった。支えを失った菊の体も
海面に引きずられそうになり息を呑んだ瞬間、他の日本兵に手を差し伸べられ、
菊はようやくアーサーをたくさんの死を飲み込んだ海から救いだすことができた。
甲板に横たわり、アーサーは久々の手足の休息と自由な呼吸に勤しむ。それを
しばし呆然と菊は見下ろしていた。美しいかんばせも、金髪も、今は見る影もなく
どす黒い重油にまみれてしまっている。菊は己の汚れひとつない純白の軍服が
汚れるのも構わずアーサーの体に怪我はないか丁寧に探り、無事を確認すると
布を持ってきてまず顔の汚れを拭った。「…どうして俺を助けたんだ」アーサーは
低い声で尋ねた。かつては同盟を結んだ間柄も今は敵同士だ。現についさっき
まで海上戦を繰り広げていたではないか。この戦いで結果的に敗北したのは
アーサーであったが最終的にどうなるかはまだ誰にもわからない。この戦争が
終わるかどうかさえ今の二人にはわからないのだ。菊は丹念にアーサーの体を
拭いていきながら、感情のない笑いを向けた。「私の意志ではありません。この
艦の艦長の命令ですので」確かにアーサーが助け出されたあとも爆音ひとつ、
銃声ひとつ今は聞こえない。飛び交う日本語は騒がしいが、どうやら救助を待つ
敵兵を殲滅せんとするような様子はなかった。竹棒やロープなどをそれぞれ手に
甲板を忙しなく動き回る兵の姿ばかりが目につく。中にはあの悪夢のような海の
中に自ら飛び込んでいく若者もいた。彼らは敵の命を救おうと躍起になっている
のだった。重苦しい敗北感を全身に負いつつもアーサーは起き上がる。海中では
それどころではなかった体温の低下が今になって襲ってきて震えが止まらない。
菊は衛生兵にアーサーの看護を一時頼み、船室に引っ込むとおそらくは自分の
携行品だろう毛布と小さな酒瓶を持ってきてアーサーに渡した。戦場では貴重な
ものだろうに少しの躊躇もない。上司の命令で助けた、それは本当のことだろう。
だが菊が自らアーサーを助けた理由は違うはずだ。菊の黒い瞳が嘘をつくのは
難しい。「…次に会うのは地獄だと思っていたよ」得意の皮肉にもいつもの力は
ない。自分のため、国民のためだと己の本心すら封じ込めて、銃口と刃と向け
合って命を奪い合う。それが今の自分たちだ。その行く末は地獄以外のどこでも
ないだろう。「ここが正しく地獄でしょう?」菊は自嘲気味に笑った。すぐそばに
引き上げられた英兵がすでに息絶えていたらしく間髪入れず必死の人工呼吸と
心臓マッサージが施されている。アーサーの耳にも届く大きな掛け声は日本語で
まったくわからない。ただ死ぬなとか息をしろとかそういった言葉で励ましている
のだろうと推察する。死、死、膨大な死。終わりの見えない戦争。終わりのない
膨大な憎しみと悲しみ。これからどれだけの人が死んでいくのだろうか。人々は、
自分たちは、どれだけ長く憎しみあって、悲しみを背負っていかなければならない
のだろうか。「…確かにここは地獄だ」ここも、どこの戦場も、戦争が終わらない
限り、この世界はすべて地獄だ。たまたま今回はこの艦に乗り合わせた上司が
こうだっただけで、こんなことがどこの戦場でも続くとは限らない。次に会うとき
こそ自分たちは醜い殺し合いをするのかも知れない。それでも今はありがたく、
アーサーは慣れぬ味の酒を啜った。冷え切っていかれかけた脳みそが酒で少し
温まったせいか、ともすれば一緒に死のうかと言いかねない、だからアーサーは
懸命に菊を見ないようにしている。疲弊した菊もまた、ええ一緒に死にましょうと
頷いてしまいかねない己を自覚している。ゆえにアーサーは酒瓶を菊に返した。
そんな愚かしい考えは酒と一緒に飲み下してしまおう。そして明日からはまた
殺しあおう。もし戦争が終わる日が来ないのならいつか本物の地獄で愛しあえる
まで憎しみあおう。誓うように二人は同じ瓶の酒を飲んだ。二人はそれ以降、
アーサーたちが病院船に身柄を引き渡されるまで一切口を利かぬよう努めて
遠い距離を保ち続けた。

「…戦争はもう、終わったんですね…?」
 そうして数年後。アーサーは傷だらけながら戦勝者として、真っ白な格子付の
病室で、真っ白な包帯で全身を覆われ、複数の管で命を繋がれた菊と再会を
果たす。アーサーは痛むだろうその手を思わず力強く握り締め、ああ、そうだ、
終わった、終わったんだと何度も頷いた。そのための犠牲はあまりに大きすぎた
けれど、確かに終わったのだと。自身にも言い聞かせるように、何度も頷いた。


※このネタに興味がありましたら詳しくは「敵兵を救助せよ!―英国兵422名を
救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」をどうぞ





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