色街で素顔を晒すのは無粋だ。一夜の夢を与えてくれる遊女が紅を差すように
客もまた何かしらの偽りを表に晒すほうがいい。少なくともサディクはそう思って
いる。サディクは東と西、それぞれ大国同士の商売の仲介をする大商人の一人
息子だ。どちらの文化にも属さないという意味で異国情緒の漂う独特の空気を
持つこの町を一族で支配している。大きな力はいまだ健在の父が握っているが、
いずれは黙っていてもサディクの手に下りて来るもの。金と権力はあるに越した
ことはないが有り余る力は身を滅ぼすことも知るサディクは正直煩わしく感じて
いる。そのサディクが今最も欲するものはひとりの遊女だった。人気や器量の
あるなしに関わらず自分を心から楽しませてくれる者を求めて夜毎訪れ、順に
呼び出してみたところ、菊花というひとりの遊女に会った。めくらであるために
店主が出し渋ったがすこぶる踊りがうまいという噂。ちょうど遊郭の遊びにも枕を
共にするのも飽いたところだ、踊れと命じると実際目が見えぬとは信じられない
ほどしなやかに妖艶に舞った。賞賛の代わりに天女の羽衣のようにひるがえる
袂を力任せに引き寄せて他の遊女と同じように戯れのくちづけをくれてやろうと
したが強かに頬を打たれ、けんもほろろに拒まれてしまった。サディクほどの男で
あればそのような無礼を働いた遊女のひとりやふたり、簡単に始末してしまえる
のを知ってもこの態度。男や権力に媚びぬ気の強さがなお気に入った。次の夜
には大枚を用意して菊花と一夜を共にしようとするとこれは金になると踏んだか
店主は途端に値を吊り上げた。菊花も菊花でそれ見たことかと言わんばかりに
「世には金で買えぬものもあるのですよ」と人を小馬鹿にしたような笑みで客を
客とも思わない。それがより一層サディクの執着を煽った。以来一夜と空けずに
サディクはこの遊郭に足を運ぶ。まず踊りを見、少々言葉遊びのような会話をし、
酒を酌み交わす。いつしか肌ひとつ触れぬ遊女ごときに恋焦がれている己に
気づくほどにサディクは菊花に夢中になった。そうしてサディクが夢中になれば
なるほどやがてアドナンの跡継ぎが遊女に骨抜きになっているという噂が流れ、
菊花の名はサディクの父の耳にも届いた。大事な跡継ぎを下賎の遊女などに
くれてたまるかときつく打ち据えるつもりがやはり血は争えぬもの、アドナンは
何十といる妾のひとりに菊花が欲しくなった。遊郭をまるごと買い受けるほどの
金を用意して店主に菊花の身請けを迫ると店主は断りの手段を失い、とうとう
菊花の正体を明かす。アドナンはかんかんに怒って遊郭を出て行った。真相は
あっという間に町中に広がり、サディクの耳にも届いた。菊花の評判は地に落ち、
もはや菊花を夜伽に呼び出すのに銅貨の一枚すら必要ない。そんな物好きなど
いるものかと誰しも噂したがその菊花をサディクはあえて最も豪華で広い部屋に
呼び出した。高価な甘ったるい香が漂う中、いっそ嫌味なほどに煌々と灯された
明かりに東洋風の薄手の赤い羽織物を着た菊花の痩躯が照らされる。豪奢な
座椅子に悠々と背を預け、「ぼさっとしてねェで、こっちに来いよ」と杯を傾ける
サディクが命じると伏せられたままのまぶたが不安げにひくりと動き、一歩一歩
確かめるように前へと進む。そしてあと二、三歩で手が届くところでサディクは
懐から湾曲した刃を鞘から抜く。次の瞬間には結び目が二つに裂けて羽織物が
床に落ちた。傍目には光がきらめいたようにしか見えないだろう瞬時の技だ。
立ち尽くす菊花は腰に巻かれた布以外、身を隠す手段を失った。上半身には
何も身につけてはいない。そこにはサディクが望んでいたような柔らかな乳房は
なく、平らな男の胸があるのみだった。菊花は怯むでも震えるでもなくまっすぐに
立つ。「男だってェのは本当らしいな」サディクは口の端を吊り上げるようにニヤリ
と笑った。「ええ」頷く菊花は動じる素振りもない。男だと知って聞けばその声も
どうしたって男のものだ。「本当の名は?」「菊、と」「女のような名だ」サディクは
クク、となぶるように喉元で笑い平然と酒を飲み干し、杯を床に置いてゆるりと
立ち上がった。値踏みするような目でその体に触れるか触れないかの距離を
保ち、菊の周りをぐるりと歩く。空気の流れが菊の肌を撫でていき、男の動作が
目を閉じていてもわかる。サディクがまた正面に戻ると前触れもなく菊の顔の
右側に無骨な手を添えてこめかみから頬を伝い、顎までの緩やかな線をたどる。
そのまま顎の先を持ち上げ、吐息がかかる近さで質問を重ねた。「…めくらだって
いうのも?」菊がわずかにくちびるを噛む。図星だというようなものだ。「…ええ」
菊は双眸を開き確かに頷いた。現れたのは黒曜石のように真っ黒でつやめいて
潤んだ瞳。サディクがもう何度”菊花”を買ったか知れないが、菊がサディクを見る
のはこれが初めてだった。サディクの浅黒い肌はいかにも健康そうで、生地も
装飾も素晴らしい衣服の下には隆々とした筋肉が透けて見えそうだ。白磁の
仮面の奥には薄い茶褐色の鋭い瞳が垣間見える。「すべてを知って、あなたは
どうなさるおつもりで?」初めて菊のほうから問いかけがあった。今となっては
銅貨ひとつ分の価値もないただの男。店主が出し渋ったのは単に菊に踊りの
才があり、見目もよかったが自分の弟だったからだ。サディクの父は明日にも
店主ごとこの町から菊を追い出すだろう。菊はじっとサディクを見据える。仮面の
せいで次の行動も読めない男が自分をどうするつもりなのか。するとサディクは
唐突に仮面を脇に投げ捨てた。部屋の隅でカシャンと割れる音がする。それでも
菊は目を離せない。「どうせいなくなるモンなら、アンタをかっさらっちまいてェな」
答えは至極明解だった。驚きに目を見開いた隙を見逃さず軽い菊の体を豪快に
すくい上げ、サディクは部屋の隅の寝台に放り投げた。寝台の軋む音が響くや
否や獲物に襲い掛かる肉食の獣のごとく上に圧し掛かり、菊の腰布や自らの
衣服を剥ぎ取るようにそこいらに投げ捨てながら往生際悪く暴れ、顔を右に左に
背けるながらサディクから逃れようと必死の足掻きを力で組み敷く。しかし抵抗
空しく顎は正面に固定され、酒臭いくちびるが下りてきた。抉じ開けられた口内で
酒精をまとった舌が暴れ、逃げる菊の舌にも絡みつく。しばしのあいだ荒々しい
くちづけが続くと、菊は力を使い果たしたように突如手足の動きを止めてしまう。
サディクは「どうした?」とどこか痛めたのかと心配げに顔色を伺う。「どのみち
今宵が最後。好きなようになさいませ」諦めを強く滲ませた瞳はとうに黒曜石の
輝きを失っていた。店主らは明朝早くに東の国に発つと聞いている。「俺が家を
捨てたら、アンタも兄を捨ててくれるか?」今や力を使わずとも素直に腕の中に
収まる菊の耳元につぶやくとあの気高い態度と手ごわい平手はすっかりなりを
潜め、サディクの背に強く強く縋るのみで菊は何も答えない。それが返事だった。
その夜を最後にこの遊郭は店を畳み、店主らの行方はようとして知れない。東の
国で動乱があったと噂に聞いた。どんなに罵倒されようとも己の気持ちに従って
かっさらってしまえばよかったのだ。サディクは今はがらんどうの跡地で"菊花"が
身につけていたビーズをひとつを見つけて拾い上げ、後悔を苦く噛み締める。





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