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遠い昔の記憶を思い出して、遠ざかるあの背中を思い出して、いつも帰宅を 避けていた。普段なら閉館まで図書館で粘るのに、あいにくと今日は休館日。 仕方なく夕暮れの川原の土手で本を読んでいると見るからに素行の良くない 連中が大挙して押し寄せて殴り合いをおっぱじめるので心底うんざりした。私は つくづく不良に縁があるらしい。火の粉が降りかかるのだけは勘弁してもらいたい のでそれとなく様子を窺っていれば明らかに多勢に無勢。孤立無援の金髪が なぶり者にされるのかと思いきや彼はたったひとりで次々と相手を叩きのめして いく。喧嘩なんて馬鹿らしいと思っているのに形振り構わない戦い方は不安定で 目が離せない。お決まりの捨て台詞を残して大群が退散したあとで彼は土手に 大の字になった。たったひとりの勝利。自分にも重なる状況に同情に近い感情を 少しだけ抱いて歩み寄り、他に怪我らしい箇所がないのを確認して血の滲んだ 口元にハンカチを当てると不良なんて早くやめなさいと忠告して私は足早に立ち 去った。いつもの私なら家に帰る頃には忘れてしまえる些細な出来事だという のに。どこへ向ければいいのかわからない苛立ちばかりが心に残った。 本田菊は校内では名前を知らない者がいない存在だった。進学校であっても 裏では何をやっているかわからないという輩は腐るほどいる。そういう連中に 目をつけられ、何かと暴力を受けているのが菊だったからだ。下手に近寄れば 巻き込まれるかもしれない。それでみんな菊を避けているのだ。そもそも絵に 描いたような優等生の菊を彼らは気に入らなかったし、この地域を牛耳る菊の 兄にシメられて逆恨みする者は絶えなかった。何より菊自身、一切手を出して こない代わりに「あなたたちのようなクズに何をされても痛くも痒くもありません」 と罵倒して憚らないその態度が火に油を注いだ結果だった。そういった現状で 菊はクラスでも腫れ物扱いだが、別段そのことを気にかけた様子もない。とにかく 異質な存在だった。ゆえに同じ学年であるギルベルトは忠告をくれた菊のことを 知ってはいたが、クラスも違い、不良グループにも入っていないギルベルトを菊は 知らないようだった。そもそも不良なんてものは一匹狼であるべきで、ああいう 群れなければ何もできない中途半端な不良がギルベルトは一番気に食わない のだ。ポケットに入れたままのよれよれのハンカチをどうしたものかなと考える。 一応洗濯はしたのだがどうしても血のしみは落ちなかった。借りを作ってしまった ようでどうにも面白くない。返す機会を窺っているとそのうち何度も暴行を受ける 場面に遭遇することになる。噂通り菊は一方的にやられるままで手を出さない。 不良も馬鹿じゃない。目立つところに傷は作らないし、教師も教師で本当は薄々 気づいているのにどうにかする気はないのだろう。たかが借りたハンカチごときで 苛々する日々が続き、ギルベルトの短気もそろそろ限界だった。その日も菊は お決まりの体育館裏に呼び出されていき、ギルベルトはあとを追った。やはり 為すがままの菊に苛立ちは沸点を越え、気づいたときには相手をボコボコにして いた。土埃を払いながら「助けてくれなんて頼んだ覚えはありません」とすました 顔で言う菊に、「借りを返しただけだ」と仏頂面で皺くちゃのハンカチを突き返す。 この時点になってギルベルトはやっとアイロンの存在を思い出した。だが元々 使い方を知らないのでこれはこれでいいとする。菊は受け取ったハンカチを見て あの日、あの土手で起きた出来事を思い出したようだった。しかし「別にあんな こと、どうでもいいんです、私はただ不良が嫌いなだけですから」と冷たく言い 放って教室に戻っていった。ガラス玉のような感情のない目がお前もあいつら クズと同じ、ただの不良だと暗に言われたようでギルベルトはますます面白く なかった。 それからというもの、菊が不良グループに呼び出されるとまるで用心棒のように ギルベルトが駆けつけ撃退するという奇妙な構図が出来上がってしまった。菊は そのたび不快そうに「余計なことはしないでください!」と苦い顔で文句を言うし、 ギルベルトも決まって「俺がこいつらに用があっただけなんだよ!」と苛々した 様子で言葉を返す。二人は別に協力関係があるわけでない。けれど菊に対する 理不尽な暴力は目に見えて減っていった。そんなことが続いたある日、運悪く ギルベルトの目が届かないところで久々に手酷く暴行を受けた数日後のこと。 ギルベルトが腕を折られるという重傷を負った。ギルベルトが敵対し続ける不良 グループの仕業ではない、やったのは菊の兄の耀だった。耀は今まで愛する 弟がずっとこんな暴力を受けているとは知らなかった。菊はこうなることを恐れて 気取られないように日々注意していたが、今回ばかりは怪我がひどく病院沙汰に なり、ついに露見してしまったのだ。そしてギルベルトが骨を折られたのはその 報復相手を耀が勘違いしてのことだ。耀のやり方は昔からそこいらの連中とは 一味も二味も違っている。血の臭いをさせて帰ってくる兄が菊はずっと嫌だった。 家に帰るのを疎むようになったのもこのせいだ。何よりそれでも兄を心底嫌いに なれない自分を認めるのが嫌だったのだ。だから犯人がわかっていても警察に 訴え出なかったギルベルトに菊は感謝した。その礼になるとは到底思えないが ギプスが取れるまでの一ヶ月、菊はギルベルトの面倒を見ようと決めた。「別に そんなことしなくていい」と言うギルベルトを押し切って、学校だけでなくひとり 住まいの自宅まで押しかけて、食事から掃除から洗濯に至るまで、片手では 不便そうなことはすべて買って出た。実のところ折られたのは利き腕ではない のでそんなに困ることはないのだが、とはついに言い出せないままほぼ一ヶ月。 その頃にはもう友情のようなものが芽生えていたのかもしれない。その矢先、 菊の義妹が不良グループに人質に取られるという事態が起きた。姓も違うし、 一緒に住んでもいない妹の素性が知られてしまうなんて、と菊は歯噛みする。 ギルベルトはまだ戦える調子でないし、耀を呼べばきっと相手は病院送りどころ では済まされないだろう。また菊がただ暴力を振るわれるのを見てるだけになる のかとギルベルトが何か他の手段を模索するあいだに菊は下衆の野次を物とも せず連中の真っ只中をひとり堂々と歩いていく。そうして卑怯にも女性を盾にする 相手を真正面から見定め、「その薄汚い手を離しなさい、さもないと」と言うなり きっちりした型から初めて拳を繰り出した。それは喧嘩技ではない。きちんとした 指導を受けた武道の技で、勝負はあっという間だった。一撃で男ひとり沈める 力を持ちながらどうして今までそうしてこなかったのかと聞けば、あんなクズと 同じになりたくなかったからということだった。妹に迷惑をかけないため学校では 他人のふりをするよう言い聞かせるほどに菊は彼女を本当に大切に思っている ようだ。その妹の危機に対して、兄として菊はプライドを捨てる必要があったの だろう。「…私もクズの仲間入りですね」と自嘲気味に笑う菊にギルベルトは首を 振る。ギルベルトは見下げるどころか内心で菊を見直したのだ。やがて校内には あのクソ生意気なサンドバッグが実は強いという情報がすぐに行き渡り、二度と 菊が呼び出されることはなくなった。ギルベルトもめでたく完治し、菊の助けは もう必要ない。これで束の間の友情は終わりを見せるかと思えば、不良嫌いの 菊と一匹狼の不良を自負するギルベルトがつるむ奇妙な光景は一向に途絶える 様子がない。ある日、不良嫌いの原因も明らかになった。帰宅途中、コンビニで 買った肉まんを手に最初に出会った川原に二人は座って取り留めのない話を することがある。夕暮れの町を背景に高架橋をガタンガタン鳴らして電車が通り 過ぎた直後、気まずい静けさを乱すように小石を川に投げ入れながらこれまで 誰にも打ち明けたことのない古い話を菊は口にする。「昔、私がもっと小さい頃、 兄が私の目の前で補導されたことがあるんです。何が原因だったのかもう思い 出せませんけど、私がいじめられて、びーびー泣いて、それで兄は報復に。でも 兄が加減を知らないものだから…。お巡りさんに連れて行かないでと泣きながら 縋っても叶いませんでした。もちろん兄がしたことはわかっています。私のため だったとしても悪いことだったんです、行き過ぎた暴力は。だけど私たち、両親が いませんからひとりで兄の帰りを待って、待って、やっと帰ってきて、もうこれで 懲りてくれると思ったら何度も喧嘩をを繰り返して。だから私、不良なんて大嫌い なんです」と静かで小さな声で打ち明ける。ギルベルトは直感で「…それって、 寂しかったからじゃねーの?」とストレートに尋ねると菊はそうかもしれませんねと 頼りなく笑った。あんなに気丈に振舞っていた菊の誰も知らない一面。あたりは 一面夕日に照らされて何もかもがやたら赤くて、ギルベルトの頬の赤さなんて 誰にも気づかれないほどだ。夕日色を反射する黒い瞳を横目で覗きながら、実は 人一倍寂しがり屋らしい菊の笑顔をこれからずっと守るべく、ギルベルトは内心で こっそり不良も廃業かなと思っていた。 |