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この人の言うことなんか金輪際信じるものか、そう固く心に誓いながらすっかり 熱を増した吐息を相手の隙を突くような形で合間合間にやっとのことで吐き出し、 代わりに呼吸として足るのに最低限の酸素だけを掠め取るように吸い込んで 必死で肺に送り込む。そうしてどうにかこうにか酸欠に陥らず済んでいるこの 状況、何か弁解があれば三行で説明をしていただきたい。且つできれば意味の わからぬ謎の鳴き声は一切挟まない方向で。そういった意図を含めてじろりと にらみつけても息苦しさで潤んだこの目では何の迫力もないに違いない。その あいだにも上顎をなでる独特の感触が背筋に怖気を呼ぶ。猫の舌ほどザラザラ しているわけでもないが、皮膚のように滑らかでもないそれが幅を広げたり先を 尖らせたりと器用に形を変え、歯茎に程近いところをつつつっと歯列に沿って なぞられていくとどうにも、なんと言うべきか、気持ちが悪い。その上、出入り口 付近でこういう細かい動きもあるかと思えば口ごとかぶりついてムシャムシャ 食べられてしまうんじゃないかという勢いで大口を開けて大胆に奥まで侵入して きた舌がどうせ同じ感触しかしないだろうに、牛タンか何かそんな味がするわけ でもなしに何らかの意思を持ってぐいぐいぐりぐり押し付けて絡ませてくるのも またなんとも気持ちが悪かった。極めつけがどうにも処理しきれない二人分の 唾液の存在だ。もはやどちらのものかなんて区別がつくはずもなく散々ぬるぬる した挙句、口の中に大量に溜まったものが行き場を失ってだらしなく口の端から 垂れたりなんかしてとてもみっともない。他では絶対見せられない姿だ。向こうは そんな様子もないから飲み込むか何かしてるんだろうか。他人に胃袋の中に 納まった自分の体液。この微妙な感情をなんと表現したらいいのか。それでも 彼は長い長い接吻の真似事に満足したらしく、名残惜しげに悪戯めいた笑みで 私の下唇を軽く食んだまま離れて、さぞ変に見えているだろう口元が元の形状に 戻った拍子に「ぽんっ」みたいな間抜けな音を立てて一応ひと段落を迎えたの だった。 私ほどではないが少しは息を荒くしている彼に、「それで、ご感想は?」と私は 問いたい。激しく問い詰めたい。元はといえば俺ってそんなにキス上手じゃない んだよねーとかそんな話だっただけではないですか。じゃあスペシャリストの 私が評価してあげますからさあどうぞ、なんて経験豊富な試験官気取りのこと なんか言いましたか?第一、私そもそもキスが上手とか下手とかいう以前の 問題でして、キスなんてしたことなんてあったっけな?ぐらいのレベルですよ? それが、何故こうなるわけですか?心の中での問いかけに脳みそはぐるぐる しても答えは一向に見つからないまま、こちらの気も知らず彼はトドメとばかりに 聞いてくる。「ね、俺のキスどうだった?」ってあなたそれね、むしろ私のほうが 聞きたぐらいなんですけど。そりゃ毎食後歯は磨いてますし、モンダミンだって 欠かしませんよ。嫌な臭いはしないはずっていうか、しないでほしいっていうか、 まあ所詮そんなのはあくまで私の希望ですけども、さておき、つまりはこんな じじいとキスして何が楽しいんですか?ってことですよ。そしてさらに言わせて もらえばですね。あなた、どこがキスが下手なんですか?俺、きっとキスが下手 だからまだドーテーなんだろうねーってそれ嘘でしょ。これで落ちない子なんて いるんですか?その人ほんとに女子ですか?あるいは女性しか愛せない方なの ではありませんか?あなたの言ってることは全部嘘でしょう?女の子なんてもう よりどりみどりでしょう?これは年寄りを騙して遊んでるだけですよね?童貞の じじい可哀想だなあ、俺がキスしてあげたら喜んじゃうんじゃない?っていう。 そのことで誰かと賭けかなんかしたりして、あとで笑い者にして。でも彼がそんな 人ではないことは私たちが一番知っているんですけれど、往々にして長い年月は 人を疑い深くさせるものですから。残念ですけどそんな手には引っかかりません からね、年寄りをからかうものではありませんよ。…って全部言えたらいいんです けど。悲しいかな長い年月は同時にこういう性的な接触に対しての抵抗力まで 失くしてしまうものでして、腰を抜かして毛足の長いカーペットにへたり込んだ 私の手を彼は跪き恭しく引いて、手のひらにまだ唾液で濡れているくちびるを 押し 当てて「ねえ。続き、したいよね?」って。その動作はキャバリエーレもかくや というもの。それに私の意見は丸無視じゃないですか。絶対、絶っ対慣れてる でしょあなた。女の子引っかけまくりでしょ。何人この手口で落としたんですか この本場のタラシ男め。それならちゃんと、可愛くて、優しくて、いい匂いがして、 柔らかくて、おっぱいもあって、こんなじじいなんかじゃなくて、本物の女の子と すればいいじゃないですかそんなの。そしたらまたあの嘘つきなくちびるが降って きて、今度は触れていくだけのキスで、ただ温かくて柔らかいだけで、まるで さっきのとは別物みたいなもので、珍しく真摯な顔をして彼は言うわけですよ。 「俺は好きな子とじゃなきゃやだよ」って。仮にこの台詞が真実だとしても、彼が 好きなのはあくまで気持ちいい行為そのものであって今日は私という媒体を 経てそれでインスタントな快楽を得ようと…ってああもう。もういい、もういいです から。はいはい、わかりましたわかりました。卑怯ですよその目は。あなたの おねだりの目には弱いんですよ私。でも私は信じてませんからね、さあさあ、 そうと決まったらさっさと女の子用のジェルか何か持ってきてくださいよ。この 家のどこかにあるんでしょう?え、ない?ゴムも?ない?……まあ、百歩譲って あなたが本当に正真正銘の童貞だとして、あなたが童貞なのはキスのせいでは ないことはたぶん、保証できると思いますよ。何なら今すぐにでも。私の言いたい ことがわかりませんか?ですからね…ああもう。まどろっこしいことはやめにして、 もう何でもいいんで早くやりませんかね。私は女の子じゃないんでもっと面倒だと 思うんですがあなたがそれでもいいとおっしゃるなら、できればベッドがいいな、と 思うんですけど。 ということで私はそんな力あるんだったらもっと大戦中とかに発揮してほしかった 嘘のような力で絵本のお姫様あるいは新婚の花嫁、というよりは獲れたての ハマチか何かのように運ばれて丁重に寝具の上に下ろされ、あれ?なんでこう なったんだっけ?と忘却の果てに消え去りそうなきっかけを探す羽目になった わけだ。やがて覆いかぶさってきたとうに見慣れたはずの裸の上半身に意外と ついてる筋肉のおうとつや、嫌味ではない爽やかな香水の混じった体臭が誰と 今こんなことになっちゃってるのか見失いそうになって「フェリシアーノくん?」と 不安を滲ませて呼びかけると口元に指を一本立てて、「しー。もう黙って」と顔を 耳の下あたりに埋めてきた。顔や声やにおいは間違いなく彼のものであるので、 私はもう彼の言う通り黙るしかないわけで。でも結局は沈黙を守れないどころか 散々声を上げて、それでも足りないとばかりに煽られて、気を失って。それから 何時間経ったんだか気がついたら少し煙いんですよこれが。時計は昼間から 夕方へ。半分空いた窓の外に煙草の煙を流している裸の背中が思ったより 広くて、やっぱり別人のようで。だけど「晩ごはんは俺が作るから心配ないから ねーパスタだよパスタ!」とやいやい嬉しそうに言ってるところは間違いようもなく 彼なんですけども。ともあれ、イタリア男をナメてると痛い目に遭うっていう好例を 本田菊が体当たりレポートいたしました。 |