※捏造注意




 会議中だというのに菊のイライラは頂点に達していた。年の功かそうと周囲に
気取られるような真似はしなかったが、件の頭の中を覗ける双眼鏡を誰かが
使って今の菊を見たならばその内に秘められた大荒れに荒れた嵐の海に気が
ついただろう。その原因はひとつ。刺すような鋭さはないけれどその分じっとり
まとわりつくような気分の悪い視線が不躾に肌の上を這い回っているせいだ。
鳥肌とため息を堪えつつ、キッときつく睨み返せば気の抜けるような邪気のない
笑みでにこにこしながら嬉しそうにひらひら手を振ってくるイヴァンの姿があった。
いつからか思い出せないが、菊は以前からこういう嫌がらせをたびたび受けて
いた。拳を震えるほど固く握り締めてぐっと耐えているが、やはり我慢できずに
結局は二度目のため息をこぼす。百年余年も前のことでまだ気が済まないのか
とあからさまな不機嫌を乗せて問えば、やだなあ純粋な好意だよと馴れ馴れしく
肩に手を回してくることさえあった。普通に嫌がらせするよりよっぽど効果のある
うまい作戦だと菊は思う。対象が自分でさえなかったら賞賛に値する発想だ。
そしてこの嫌がらせは会議中だけに留まらず、何かにつけ顔を合わせるたびに
続いた。目には目をと古来から言うように菊も何かささやかな復讐を考えない
でもなかったが、どう思案しても同じだけの精神的なダメージを与える方法が
見つからない。そもそもイヴァンに怖いもの、苦手なもの、不快なものなど存在
するのだろうか。報復の道も潰えて菊はひたすら苦々しく思うばかりであった。
長い時間が経ち、いつしかこんなふうに簡単にイライラさせられていることこそが 相手の思う壺なのだと悟り、徹底的にイヴァンを無視するようになってからは
嫌がらせのレベルは次の段階に移った。廊下ですれ違いざま、唐突に両頬に
手を添えられたかと思うと次の瞬間には彼のイメージからは遠い、予想より
温かなくちびるが菊のくちびるに降ってきた。何をされたのかもわからず一時
呆然として、ようやく我に返ると菊は怒りと屈辱と羞恥に顔を真っ赤に染めて
ごしごしと口元を手で拭う。何するんですか!と激昂するといいじゃない初めて
じゃないんだしとイヴァンは笑っている。頬にくちづけられたことを受けたことを
言っているのなら確かにフェリシアーノが最初だが、口と口ではもちろん経験は
ない。女性相手ですらしたことのないファーストキスが男などノーマルを自負する
菊にとってあってはならないことだ。しかしイヴァンは言う。全然違うよ、ファースト
キスは今のなんかじゃない、相手はあのときも僕だったけどねとまるで記憶に
ないことを平然とぺらぺらと。疑わしく視線を送っているとイヴァンは一瞬真顔に
戻り、ねえ本田くん、思い出してね?と囁いて去っていく。ひとり残された菊は
嫌がらせの新しい手口にとうんざりした気持ちを隠しきれないでいた。

 その夜、古い古い記憶の夢を見た。目線はずっと低く、背丈は今の半分ほど
あるないかだろうか。当時から好奇心旺盛だった菊は帝に願い出て星の運行や
暦などを師に習っていた。あの頃はまだ科学では証明されない存在が人々と
同じように生きていて、彼らは時たまに悪さをする。菊の師はそういった諸問題に
関してのスペシャリストで稀代の逸材ではあったのだがだが、やや横着な人物
だった。往々にして彼らは己の息づく大切な国土であり、ある意味主でもある
菊に従順であったため、面倒ごとを省こうと時に菊を現場に連れて行き、何とか
してくれと頼まれて半ば呆れながらも菊は渋々手を貸したものだ。そして訪れた
その山も彼ら、鬼が住まうとされた場所のひとつだ。けれどいざ出会ってみれば
天にも届くような立派な体躯と赤い髪、牛のような角を持った人ならざる異様な
姿、夜な夜な人を襲って食べていると尾 ひれのついた噂の地に住んでいたのは
鬼ではなく、はるか海の向こうの大陸から漂着した船乗りたちであった。確かに
そのいでたちは奇妙で、話す言葉もまるで通じない。このときはまだ外つ国の
人々は鬼と畏怖されても仕方のない存在であったのだ。さて師匠に頼まれは
したものの言葉も通じぬ異人相手ではどうしたものだろうと菊が頭を悩ませて
いると、おずおずとひとりの子供が前に出た。菊より少し背の高い外つ国の子供
と思いきや、菊は己と同じものを子供に感じた。彼は同胞と共にこの地に迷い
込んだ国そのものであった。国であり人である彼と菊は共通の言葉で意思の
疎通ができた。彼の話では、遠出の漁を終えて故郷に帰ろうと大陸を目指して
いる途中で嵐にあって方角を見失い、運良くこの島国にたどり着いたはいいが
船は破損がひどく、鬼だ何だと恐れられる彼らは食料を譲ってもらうこともできず
わずかに残っていた保存食も尽きて同胞はみな飢えに瀕しているのだという。
帰りたい、帰りたいよと幼子のように泣く彼に同情した菊は物資と船の提供を
申し出た。帝に頼んだら何とかしてくれるに違いない。すると目に涙を溜めた
彼は途端に抱きついてきて、喜びのあまり両の頬では飽き足らずくちびるに
感謝のキスをしたのだ。口吸いという行為ならこの時代、日本の巷でもすでに
存在していたが、大人ならともかくこのときの菊はそれが何を意味するものか
わからない。いとけない仕草で首を傾げる菊に、いつかまた戻ってきたら教えて
あげるよ、と彼らはそのまま海の向こうに帰っていった。彼が戻ってきたことは
ないはずだ。でも、白銀のような髪にすみれ色の瞳、それからあのとき名乗った
国の名は確か…。

 目覚めた菊はがばっと勢いよく起き上がり、湧き上がる諸々の感情に耳まで
赤く染めたまましばらく身動きができなかった。ただの夢であったらどんなにいい
だろう。だが残念ながらあれは事実、すべてイヴァンの言う通りだった。明日から
一体どんな顔をしたらいいのかもわからない。だが菊の困惑などまるで関係なく
次の会議の日程はやって来て菊はまた執拗な視線の攻撃を受けた。苛立ちを
抑えながらも平静を装って何気なく過ごせた以前の自分が遠く感じるほどに
みっともなくうろたえて仕事に支障をきたさないのが精一杯であった。会議が
終わるとイヴァンはいち早く立ち去ろうとした菊の横に陣取って嬉しそうにやっと
思い出してくれたんだねとにこにこ笑っている。じゃあもう一回しようよと当時より
もっと差のついた背丈をぐっと折り曲げ寄せてくる顔面を、菊は固いファイルで
乱暴に押し退けてルーシなんて国は知りません!といかり肩でずんずん歩いて
いく。遠ざかる菊の耳は遠目でもわかるぐらいにはっきり色づいていた。
「…本田くんの嘘つき」
 小さな呟きには少しの落胆と、大きな希望が含まれている。思い出してくれた
ならあとは押していけばいい、力技には自信がある。思えばあれがイヴァンの
初恋だった。死に掛けた同胞を救い、自分たちを祖国に帰してくれた月のない
夜空のような髪と瞳をした優しいあの子供。菊がイヴァンの想いを認めないという
ならまずはあのくちづけの意味を改めて教えてあげよう。でもあの様子ならどうせ
脈アリだろうけれどねとイヴァンはくすくす笑う。


※各地の鬼伝説の正体は白人(ロシア人)説があるそうです





ブラウザバックでおねがいします。