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本来誰彼構わず話しかける陽気な性質ではないはずのルートヴィッヒだが、 その日は少しばかりハイペースで飲みすぎたのかもしれない。いつの間にか 単身ヨーロッパを旅行中だという日本人と意気投合し、部屋にまで招いて飲み 直そうという話になっていた。日本人は本田と名乗る。バイク好きの兄がこの 場にいたら、あれお前んちか?と嬉々として馬鹿な質問をしていたに違いない。 日本に本田姓が一体何人いるのやら、本田は苦笑しただろう。あいにく家に つまみになるものはヴルストぐらいしかなかったのですぐに食べ尽くしてしまうと 台所をお借りしてもよろしいですか?と本田はキッチンに立ち、じゃがいもやら ベーコンやら冷蔵庫の残り物で簡単につまみを作ってしまった。ルートヴィッヒは その器用さに感心し、実際口に運んで二度感心した。ビールを空けるペースは ますます進むみ、仲間内でも相当アルコールに強い部類に入るルートヴィッヒも そろそろ酔いが回ってきた頃になってふと本田の旅行の目的に関心が湧いた。 ドイツに来る前はどこにいたんだ?と尋ねるとルーマニアに、と本田は応えた。 ヨーロッパ中を回っている割にはやけに小さな荷物から写真を取り出す。そこに 写っていたのは記憶が確かならトランシルヴァニアのブラン城だった。ああ、あの 吸血鬼の、とルートヴィッヒは昔見た映画をおぼろげに思い出す。四百年の長い 時を生きた吸血鬼、最愛の亡き妻と瓜二つの女性への愛、吸血鬼退治の教授。 原作を読んだことはないがまあそれなりに面白かったような気がする。吸血鬼に 興味がありまして、と笑う本田なら原作も読んだかもしれない。しかし本田は逆に 映画のほうを見てはおらず残念ながら話はあまり噛み合わなかった。吸血鬼か、 そんなものに興味を持つなんて変わったやつだと思いながら飲んでいるともう 少しゆっくり話をしたかったのにやがて重い眠気が襲ってきてルートヴィッヒは 本田の肩を借り、何とかベッドにたどり着いた。本田は見るからに細く、筋肉も ろくについてはいないようなのに見た目よりずっと力があった。だが細い手首を つかんだままベッドに倒れこむと、やはりその体重差には耐え切れず一緒に 寝具の上に転がる羽目になった。もう、何をするんですかと笑いながらの抗議の 声は耳に入らない。それどころか悪戯を思いつき、片手に持ってきてしまった 瓶に残った室温に温められたビールを本田の頭からかけてしまった。この時点で ルートヴィッヒの酔いは重度のものと言える。生真面目なルートヴィッヒは普段は 悪戯をたしなめる立場になりがちなのだ。それでもああもうこの酔っぱらい、と 本田の怒ってみせたつもりの楽しげな声がなんだか可笑しくてしょうがなくなり、 ルートヴィッヒはただ笑っていた。本田の髪から頬から鼻先から、ビールが伝い 顎の先端で黄金のしずくとなって落ちそうになる。それを見て自分でかけたくせに ああもったいないと思い、思わず口を運んだ。強いアルコールに、麦の味わいに ホップのほどよい苦味。そこから先は一連の流れのようなもので無意識に酒臭い 口でくちづけて、濡れた首筋から胸元に向かって舌を這わせていた。不思議な ことに本田は別段抵抗したりしなかった。調子に乗って肩に噛みついてもだ。 本田は悪い子供の悪戯を見逃すような余裕の笑みを浮かべてルートヴィッヒの 好きなようにさせている。シャツの下に手が入りズボンの前を寛げても、本田は 何も言わない。それを了承の合図だと思った、その途端だ。 「…本当なら私が仕掛けるべきだったんでしょうけどねえ」 その意味をルートヴィッヒは即座に理解することが出来ない。どういうことだ?と 疑問を口にしようとしたそのとき、肩に鋭い痛みが走った。針よりもずっと太い ものが深く皮膚の下、筋肉に到達するまで突き刺さるような痛み。咄嗟に本田を 突き飛ばし、痛みの元に手を伸ばすと指先には血が滲んでいた。何をした?と 声を荒げて問い質す。酔いはいっぺんに冷めてしまった。本田はあなたの血を 少し、いただきましたとくちびるを女のように赤く染めて舌なめずりをして怪しく 笑う。吸血鬼という先ほどの言葉が思い出された。ならばと常に首から下げて いる十字架を取り出してみるが日本の吸血鬼には効かないようです、と言葉の 通り何の変化も見られない。むしろ変化を起こしているのはルートヴィッヒのほう だった。体は痺れながらもじわじわと体温が上がり、その熱がさらに一点に集中 していくのだ。この感覚にルートヴィッヒは覚えがあった。 「男で申し訳ないですが、でもやることは大体一緒ですしね」 本田は痺れてあまり身動きの取れないルートヴィッヒの体を容易に押し倒し、 いそいそと服を脱がせていく。どうして、ともつれる舌で聞けば血をいただいた お礼ですと本田は花が咲くように笑う。パブで出会ったときから本田はこれを 狙っていたのだろうか。何故あのとき声をかけてしまったのか、ルートヴィッヒは その理由をはっきりと思い出した。誰でもよかったわけではない。はじめからこう したいと心の奥底で願ってしまっていたのだ。後悔の念はすぐに薄れ、徐々に 慣れた巧みな性技の前に塵と化していった。 次の朝、奇妙なだるさと共に目を覚ます。最初は飲みすぎたせいかと思って いたが腰に集中的に残る重苦しさ、肩に残るわずかな痛みに昨夜の出来事が 脳裏に蘇る。あのまま血を吸い尽くされて殺されるかと思いきや、与えられた のは死ではなく絶妙の締め付けによる得も言われぬ快感で、絶頂の瞬間に 再び血を吸われ、痛みと快楽がない交ぜになった麻薬の如く凄まじいまったく 新しい感覚をルートヴィッヒに教えただけで本田はそれ以上は何もしなかった のだ。部屋を見渡すと、本田の姿はもうない。あなたがとてもおいしそうだった もので、本田はそう言っていた。恋の蜜と悦楽の毒を含んだ己の血の味は一体 どんなものだったのだろう。 『次は、カーミラの地にでも向かいましょうかねえ』 昨日の会話の断片を頼りに、ルートヴィッヒは駅に走った。カーミラの舞台は 確かオーストリアだ。最寄の駅、オーストリア方面に向かう列車のホームに駆け つけるとあの小さな荷物を地面に置き、朝一番に食べるのがおいしいと評判の ヴァイスブルストをのんびり頬張る本田がいた。あにゃひゃ、ほいはへふぇひはん へすは。何を言ってるのか全然わからないが、ルートヴィッヒが追いかけてきた のが予想外だということは顔に書いてあった。なおももごもご何か言われる前に ルートヴィッヒは男なら責任を取れ!と怒鳴りつけてやった。口に含んだものを 時間をかけて咀嚼し終え、やっと飲み込んでから本田は何をですか?と不思議 そうに首を傾げる。 「あの、その、なんだ、つまり、あれだ」 要するに好きになってしまった責任、についてだった。ただ事ではない様子に オーディエンスがわらわらと集まってくるなか、ルートヴィッヒは素面の状態で 改めてくちづけることでその賠償とした。 |