共学となってまだ一年目の元女子高に野球部が出来たのは九月の末のこと
だった。男子生徒が活躍できる部活自体が少ないなかで、野球部の必要性を
訴えたのはそれまで野球経験がまったくなく、夏休み中たまたま見た高校野球
決勝戦の熱闘にいたく感銘を受けたというギルベルトという生徒だった。野球を
するには選手が九人必要なことはさすがに知っていたが、彼には友達らしい
友達がいなかったので、その辺の生徒を適当に捕まえて脅し、強制的に入部
させるという方法でひと月足らずで部員を九人を集めることに成功してしまった。
中には強引に誘われた彼の親戚二名が含まれている。そして野球漫画を読み
情報を集めるうちに野球部にはマネージャーも必要だということが判明し、近所に
住む同級生も同じようなやり口で無理やり入部させられた。それが菊だった。
部員のほとんどは野球経験がなく、初歩中の初歩のキャッチボールにも苦労する
始末で定年間近ののほほんとした古典教師が監督の座に収まり、何事も楽しい
のが一番じゃよ、これはこれでいいんじゃないかねほっほっほっと扇子で顔を
扇ぎながらリトルリーグにも負けそうな新米野球部をにこにこと見守っていた。
それぞれ入部したきっかけはアレだが確かに彼らは楽しそうで、そんなもんです
かねえと思いつつも菊は汚れの少ないユニフォームを洗濯したりラインを引いたり
ボールを磨いたりしながらその後一年はただ遊びの延長のような日々が続いた。
しかし発起人ということで自然とキャプテンという流れになったギルベルトを含め 部員が二年生になり、高校野球の夏の予選に参戦してそれが間違いであった
ことに気づかされる。カッコイイから俺ピッチャーな!と買って出たギルベルトの
球は投げることにヒットされ全員ホームラン、得点はあわや三桁という散々な
結果だ。対するギルベルト側はというと、コールド負けとなる寸前にやけくそで
振ったバットが偶然当たり、打球がうまく三塁線に転がってヒット一本というのが
やっとで、結局は二塁に残塁したギルベルトはがっくりと膝をつき、悔し涙の
染み込んだ土を握り締めた。そこから野球部は半世紀前は高校球児であったと
いう監督に本格的な指導を改めてお願いし、連日日が暮れるまで練習を行い、
土や汗にまみれたユニフォームを洗濯する菊の苦労は増えたが、以前よりも
生き生きしている彼らを見守ることで疲れは吹っ飛び、充実した日々と言えた。
やがて部員が三年生となり、最後の夏を迎えた。脅威のスピードで実力をつけた
チームは順調に予選を勝ち進む。学校側ははじめから誰も期待していなかった
のだが、準決勝で勝利を収めたところで態度を変え、決勝では全校応援にも
至った。創立三年目のたった九人の野球部ということでマスコミにも注目され、
決勝戦前日ギルベルトの顔は地元新聞にも載った。ちゃんと切り取っておけよ!
と言われたので洗濯機を回す合間に菊は新聞を手に取ると、あんまり頭の
良くなさそうなコメントの最後に、マネージャーを甲子園に連れて行くのが俺の
目標!と書いてあった。ギルベルトは知っていたのだ。菊が昔、リトルリーグに
所属していていずれは甲子園の晴れ舞台に立つことを夢見、けれど肘を壊して
夢を断たれたことを。
「あのバカキャプ…ほんと、バカなんだから」
 必死こいて頑張んのとかカッコワリーだろと小学生時代、壁相手に投球練習を
する菊を馬鹿にしていたギルベルトは今、汗を飛び散らせながら投球フォームの
チェックに励んでいる。球種は少ないが狙いを定めさせない荒れ球が持ち味だ。
まったく捕りづらくてかなわんと愚痴をこぼしながらも一度も捕り落としたことが
ない優秀なキャッチャーのルートヴィッヒの腕もあってこその芸当だが。自慢の
腕力で正確に二塁を刺して盗塁を阻み、ピンチを救ったことが何度あっただろう。
セカンドのローデリヒは元々運動に向いていない性質で本当に嫌々ながら参加
しているが、勝利したあとのスポーツドリンクは格別気に入ってるらしい。この
二人が例の入部させられたギルベルトの親戚二人だ。聞けばギルベルトはあと
二人足りねえんだ!頼む!とあの無駄なプライドの塊みたいなのが土下座して
きたので渋々承知したらしい。そんなことがあったとは。あのギルベルトが。菊は
すぐに信じられない。そういうことは新聞にではなく本人に言えばいいでしょうに
あのお馬鹿、バカだから仕方ないとあっけらかんとして事情はすでに承知のこと
らしい。明日は頑張るから応援してくれ、と二人は菊の涙を見なかったことにして
くれた。翌日の決勝戦、ギルベルトの奮闘で失点は1ながら相手ピッチャーは
甲子園常連校のエース、打線は沈黙を保ったままだ。いよいよ最終回を迎えて
部員も監督も応援団も全員立ち上がり、フォアボール、エラーと幸運で稼いで
ツーアウトランナーは二塁、打順は三番ギルベルト。ここでヒットを打ち走者を
三塁に送ればここ一番での打率はチーム一の四番のルートヴィッヒが得点して
くれるかもしれない重要な場面だ。ギルベルトはツーストライクのあと慎重に
際どいボール球を三球見逃し、最後の一球。相手は速いストレートをど真ん中に
投げてきた。狙いを定め、振り抜く。気持ちのいい音がカーンと響いて打球は
ライトへ弧を描く。菊は手を組んで目を閉じた。どうか、落としてくれますように。
願いは通じず、平凡なフライは危なげなくライトがキャッチする。審判は大きな
声でスリーアウトと試合終了を宣告した。礼が済んで戻ってきたギルベルトは
柄にもなくごめん、と謝ってきた。菊はギルベルトの帽子のつばを引き下げて
目元を隠し、涙を見なかったことにした。
「私はもう充分、夢を見させてもらいましたから」
 こうしてギルベルトと菊の夏は終わった。あとは誰か九人またひっ捕まえて
後輩に受け継がせて引退し、受験に向けて始動するばかりだ。おそらく卒業後は
別々の道に進むだろう。それでもあのまぶしいほどの夏の夢を忘れないように、
菊はあの汗の染み込んだ帽子を譲り受け、大切に部屋に飾っている。





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