「まったく!この蒸し暑さはどうにかならないのかい」
 家主に断りの一言も入れず当たり前のように黙ってずかずか上がりこみ、靴を
雑に脱ぎ捨てると同時に靴下も玄関先で放ってきたらしいやや湿った足音と共に
台所に立つ菊に文句をぶつけながらアルフレッドは勝手知ったる我が家のように
冷蔵庫を開け、ちょうどコップ一杯分ほどしか残っていない冷えた麦茶を一息に
飲み干し、足りないよ!と再度文句を言った。菊ははいはいと慣れた様子で空の
プラスチック容器を受け取り、さっと洗い水をいっぱいにして麦茶のパックをひとつ
入れ、手渡されたアルフレッドが冷蔵庫の元の位置に戻す。二時間もすればよく
冷えた麦茶が出来上がるだろう。二時間も待ってられないよ!とアルフレッドは
不満そうではあるが、嫌なら水でも飲むしかない。生憎アイスは切らしているし、
冷茶ならばすぐに出来るけれどアルフレッド曰くグリーンティーは苦くてイヤだ、
とのことなので仕方がない。
「それにしたってこの騒音ったらひどいよ!」
 今日のアルフレッドは文句ばかりだ。しかし騒音?と菊は首を傾げる。一応
都内ではあるが山や田畑が広がる片田舎に住居を構える本田邸はいたって
静かそのものだ。近所で道路工事や新築工事があるのならまだしも、そんな
音なら菊もとっくに辟易しているはずだ。意味がわからないといった表情の菊に
アルフレッドは焦れて窓の外に垣間見える庭木を差し、「Locustだよ、Locust!」
と訴える。Locust、米語で蝉、いなごを差す単語、と頭の隅っこにある記憶を
菊は時間をかけて引き出して、なるほどと笑った。
「確かに、にぎやかですねえ」
 確かに、時に体感温度を実際の気温以上に感じさせるものではあるが毎年の
ことで菊はすっかり慣れっこである。それに蝉の鳴き声は風情があっていい。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、最近はクマゼミも増えてきた。盛んな
鳴き声は降りしきる雨音のように聞こえるので蝉時雨とも言われる。日暮れ
ともなればヒグラシが鳴き出して夏の宵の風情を一層漂わせ、縁側に座して
蚊遣りを炊きながら当たる涼風の心地よさといったらなんとも言葉に言い尽くせ
ない。
「…まあ、俺の国よりはマシだけどね」
 菊があまりに穏やかな顔で笑うので、沸騰しつつあった脳みそも少しは冷えて
落ち着いた口調でアルフレッドは自嘲気味に庭木を見遣る。アメリカの蝉は素数
蝉といって同じ種が毎年羽化することはなく、十七年に一度、十三年に一度と
いった周期で羽化をし、その数は日本の蝉の比ではなく局地的に大発生する
のだ。その蝉が一斉に鳴き出したにぎやかさといったらまさに騒音としか言い
ようがない。今年はBrood14と呼ばれる種の蝉が羽化し、アルフレッドの鼓膜を
盛んに打ち付ける。いずれ来る二つの素数が重なる夏はさぞやかましいこと
だろう。思い出して苦悶の顔でマイガッとわかりやすいアメリカ人の動作で耳を
塞ぐアルフレッドにご愁傷様ですとくすくすと笑いながら菊は応じる。
「じゃあお見舞いに、冷えた桃でもいかがです?」
 菊は冷蔵庫の下の段を開けるように言う。アルフレッドが指示の通り開けて
みると見事に熟して濃い桃色と途端に香る甘いにおいを発し、産毛の際立つ
丸い果実が二つ鎮座していた。ワオ!とアルフレッドは歓声をあげる。菊は
それらを受け取り、水で洗っただけで再びアルフレッドの手に渡す。皮は
いいのかい?という尋ねに首を振る。
「皮ごと食べるほうがおいしいんですよ」
 己の手にあるひとつを菊はそのままかぶりついて見せた。柔らかく、汁気も
たっぷりあって口からこぼれてしまいそうだ。指で大胆に口元を拭い、ほらと
普段行儀のいい菊にしては珍しいことをする。そうかい、ようしとアルフレッドも
真似てワイルドにかぶりつく。濃厚な甘味が口の中いっぱいに広がり、冷たさと
相まってすぐに蒸し暑さによる不快さがハッピーなものに変わっていく。どうせ
なら縁側で食べましょう、もうすぐヒグラシが鳴き出しますよと促されて移動する。
カキ氷のブルーハワイのように透き通る青空に、もこもこと綿飴のような白い
入道雲、カナカナカナと一番乗りのヒグラシが鳴き出し、やがて空は群青と朱を
帯びていく。ドンドンドン、と夏祭りの合図の花火が鳴り、一旦怯んだヒグラシが
再び騒ぐ頃には桃も食べ終えて、庭に水をまいたら、露店に行きましょうねと
微笑む菊にアルフレッドは俺もキモノが着たいぞ!とねだった。





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