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場違いもいいとこだ、と菊は着慣れないタキシードの蝶ネクタイを何度も直し ながらできるだけ人目につかない場所を選んでひっそりと佇んでいる。食べた こともない料理はほっぺたが落ちそうなぐらいとてもおいしいのにあまり手は つけられず放置され、きらびやかな装束をまとったいかにも上流階級の人々は 緩やかに流れる音楽に身を任せ、広場の大時計から出てくる人形たちのように くるりくるりと回っている。何が楽しいのか、菊にはわからない。夜会の楽しさが わからないということはつまり来るべきではない人間だということではないか。 借り物であるこのタキシードのように身の丈に合わない、自分のような庶民には 相応しくない。菊はそう思う。留学中できた友人がさもホームパーティーにでも 招くような軽いノリで誘うものだからついホイホイ着いてきてしまったが、えーと ここ何のアトラクション?とでも聞きたいぐらいの豪邸が待ち受けてるとは菊は 思いもしなかったのだ。さすがにフルオーケストラとまではいかないが生演奏の 楽団はクラシックにはあまり詳しくない菊でも耳にしたことのある音楽を奏でて いる。せめて友人が話し相手になってくれたらいくらか救われるのに、彼は菊を ほったらかしにしてどこかの令嬢だろう女性とダンスの真っ最中だ。具合が悪く なったからとか言付けを頼んで帰ってしまおうかな、そうだそうしようとせめてもの 腹いせに舌が蕩けるほどに甘い貴腐ワインを一杯と、皿に山盛りの御馳走を 腹に収めたところで突然声をかけられて菊は驚いた。誰も、こんな夜会に来る ような身分の人間には誰も知り合いがいないはずだ。菊は彼らに一枚も二枚も 分厚い見えない壁を一方的に感じているのにも関わらず相手は当たり前に話し かけてくる。 「あなたは踊らないのですか?」 あれ?どこかで会ったことが?と思ったらさっきまでヴァイオリンを弾いていた 楽団のひとりだ。今は別の人がヴァイオリンを弾いているようだ。切れ長の涼しい 目に眼鏡をかけた、口元に色気のあるほくろの、背の高い美形。楽器のこと なんてちっとも知らないけれど、あの歌うような、咽び泣くような音色はとても 素晴らしかった。それがどうして、私なんかに、と菊は疑問を隠せないまま私は 踊れませんのでと作り笑いで応えるのが精一杯だった。すると酔狂な男性は 私がお教えしますよと笑ってみせる。そのまなざしは菊の表情といった表面上の ものよりもその奥にある何かを鋭く射て、見下ろすようなもので、少し怖かった。 いえ、結構です、もう帰るところですのでとつたないこちらの言葉で断りを入れて ホールの出口を目指そうとすると、すれ違いざま腕を強くとられる。すらりと伸びた 指と、手入れされた爪の、モデルのような美しい手だった。見かけより存外に 力のある男性はそのまま菊をホールの中心へと連れ出す。あの、ちょっと、と 菊の声には耳も貸さない。男二人、異常ではないかという危惧の通り少しばかり 視線が痛い。けれど男性は微塵も気にする様子もなくダンスの手ほどきをする。 このままダンス講習に付き合うしかないと菊はもはや諦め半分だ。映画で見た ことのある、スロー、スロー、クイッククイックスロー。基本のステップさえ学んで しまえばあとは男性がリードしてくれた。初心者の菊がパートナーでもそれなりに 見えるような、見事な腕前だ。せっかくなら女性と踊ればいいのにと考えていると ステップがおろそかになり集中なさいと叱られてしまった。早く曲が終わったら いいのに、と思ったそのとき音楽はゆったりしたワルツから激しいタンゴへ移る。 逃げ出す隙もなく、基本の腰と腰を密着させる体勢を男性はより近づけようと 菊の腰をぐいっと抱き寄せ、大きく一歩目を菊の両足のあいだに踏み出した。 足の付け根を大胆に割り入ってきた男性の大腿が擦り上げ、驚きと羞恥のまま 赤く染まった顔を上げると、男性はまたあの心の奥底までを見透かすような顔で ニッと笑う。のけぞった背に手を回されればあたかも振り付けのひとつであった かのようだ。あとはリードに任せるままで、タンゴが終わるまで菊が解放される ことはなかった。通常の三倍は疲れました!勘弁してくれ!と菊がぜーはーして いると、甘ったるい貴腐ではなくすっきりとした辛口の白ワインを手に男性は戻って くる。やけくそで一息に飲み干すとあなたは筋がいい、ちゃんと練習したら きっとうまくなりますとねぎらわれるが庶民はダンスがうまくなったってしょうが ないのに。はあ、それはどうもとあいまいに応じるうちに楽団の、ピアノを弾いて いた金髪の男性に眼鏡の男性は連れ戻され、これ幸いと菊はホールから逃げ 出した。数日後、菊の元に夜会の招待状が届く。差出人は知らない名前だ。もう こりごりだと無視を決め込んでいると当日、大学まで高級車が迎えに来て拉致 同然に押し込まれ、着いたところは先日の友人宅よりさらに大きなお屋敷だ。 夜会があるという割りにホールには人気がなく、菊の靴音だけがこだまする。 やがてぎいいと音を立てて開いた扉から出てきた差出人はさあ、練習の続きを しましょうかと眼鏡の位置を正しながら笑った。 |