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この日、ギルベルトは朝からことごとくついていなかった。寝坊したせいで(これ だけは自業自得だが)すでにはじまっている一時限、こっそり教室に入っていくと ばっちりうるさい教師に見つかってこっぴどく説教を受けるわ、二時限では微分 積分の悪魔に混乱しているところをがっつり当てられるわ、三時限では走行中 顔から思いっきり転ぶわ、四時限で早弁しているところを見つかってまた延々 説教受けるわ、昼休みの購買では好物の生クリーム入りあんぱんは早々に売り 切れてるわ、五時限六時限だけは平穏無事に何事もなく、というか爆睡していた ので気づかなかったのだが、トイレの鏡に映った顔には油性ペンで鼻毛と「肉」の 文字が落書きされてるわ。今日は天中殺か?神は俺を見放したのか?などと 自問自答しながら帰りのバス停まで向かうと時間まであと一分は余裕があった はずなのに乗るはずのバスは百メートル先を軽やかに駆けていく。バスまで俺を 見放したのかとがっくり落ち込む。そもそもギルベルトはバス通学なんてしたくは なかったのだ。バイク通学こそがかっこいいと16になるとすぐに原付の免許を 取り、バイク通学を禁止している学校側にバレないよう慎重に通っていたのだ。 しかしよりによってそれを密告したのは兄のローデリヒであった。おかげでつい 先月、十日間の停学処分を受けたばかりだ。反省文も嫌というほど書かされた。 覚えてろよ、と思いつつ策士である兄に一泡吹かす機会はなかなか来ないのが 現実だ。停学処分も何回目かわからない。おちおちしてると弟のルートヴィッヒの ほうが先に卒業してしまいそうでますます悔しい。何かいい方法はないかと模索 する日々であるが、さておきこの日の運命の神様の仕打ちはひどかった。何せ ここは田舎、次のバスまでは一時間ある。何をして暇をつぶそうとあたりを宛ても なくぶらついていると氷と書かれた布がはためく一軒の古びた木造の住宅が あった。こんなところでカキ氷なんかやってんのか?と興味を引かれ、軋むガラス 戸を引くと小さなテーブルが二つに、小さな奥の座敷と十人も客が来たら窒息 してしまいそうな狭い食堂がそこにはあったのだ。カレー、ラーメン、おにぎりと いったお品書きが並び、手書きのカキ氷のメニューもある。しばらくギルベルトが 立っていても何も音沙汰がないので今日は休みなのだろうかと思えば奥から やっと人が出てきて、どうぞお好きな席に、と言った。和服を来た小柄な男だ。 店のあるじなのだろうか。ギルベルトはとりあえず年代物のテーブルにつき、 高校生の旺盛な食欲のままにカレー大盛りで、と頼んだ。しかし、あるじは 今日はカレーやってないんですよと応える。じゃあラーメン大盛りで、と頼むと、 これまたやっていない。やる気あんのかこの食堂は。若干の苛立ちを感じながら 何ならあるのかと問えばおにぎりとカキ氷ならできますよとのこと。ならはじめ からそういう風に書いておけよと思いつつ、仕方なくおにぎり三つとカルピス味の カキ氷を頼み、待つこと数分。皿に予想よりかなり大きなわかめの混ぜご飯の おにぎりが三つと、ガラスの器に山盛りになったカキ氷が出てくる。コンビニや スーパーのおにぎりとは違う、かぶりつくと柔らかくほぐれる人の手で握られた おにぎりは懐かしい母の味に近い。一個をあっという間に食べ、溶けないうちにと カキ氷に戻り、それからまたおにぎりへ。冷えた口の中が温かさとちょうどいい 塩加減に喜ぶのがわかる。成長期の胃袋ながらふたつ食べるとおなかいっぱい で、もうひとつは包んでもらうことにした。ノスタルジックな、アルミホイルの包み。 これで五百円もしないというのだからお得…原価はこんなもんだろうが、いや よそで食えるか?って言ったら食えないだろうからやっぱお得なんじゃないか?と いう結論で待ち時間をこの食堂で過ごし、ギルベルトは次のバスで帰途に着く。 翌日友人らに聞けばあの食堂は桜食堂というらしい。代々ここの学生が先輩から 後輩へと場所を伝え聞く知る人ぞ知る場所で、あの通りお品書きはあるけれど いつもカキ氷とおにぎりしかやっていないんだという。場所を知らぬ友人たちは こぞって聞きたがるけれどあの世間から切り離されたような独特の雰囲気がただ 面白がるだけのやかましい連中に埋め尽くされるのを嫌ってギルベルトは結局 だんまりを貫き通し、その後は三日と空けず桜食堂に通った。これほど顔を あわせれば自然と会話も増える。ここの学生さんが好きで、道楽でやってるん ですよと笑うあるじは学校のこともギルベルトの兄弟の名もよく知っていて、今度 連れてきてくださいよと頼まれてもやだね!と頑として聞き入れなかった。それを 残念そうに、熱いご飯の塊を素手で握りながらあるじはまた笑う。夏と冬が二回 ずつ過ぎて、ギルベルトもいよいよ卒業という段になった。問題児ではあったが、 何とか卒業にこぎつけたのは運のおかげもあるかもしれない。運命の神様は どっちに賽を振るのかわからないものだ。制服のブレザーに袖を通すのも最後と いうその日もギルベルトは桜食堂にやって来て、いつも通りおにぎりとカキ氷を 頼む。おにぎりを作りながら突然、そろそろ店を閉じようと思うんですがね、と あるじは打ち明ける。ギルベルトは困ると言った。「こっち帰ってきて寄るところが なくなんだろ」ギルベルトは遠い町に就職するのだ。あるじはにこにことして、 じゃあもう少しだけ、開けときましょうかねと笑っていた。 |