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明日の会議を前に各国軽い顔合わせをする予定が、飛行機の関係で菊は 遅れてくるらしい。アーサーはつまらないといった表情を隠そうともせず、彼が やって来るだろう東の空が見える位置で頬杖ついてぼんやりと眺めていた。 あちらのほうではもうツユとやらは始まっているだろうか、イギリスと少しばかり 似た灰色の雲の下、じめじめとしてぱっとしない天気の連続、けれど淡い水色や 紫色のあじさいはだからこそ一層冴えて、雨だれに耳を傾けながら菊はこれは これで風情があっていいではありませんかと彼が微笑む、そんな季節は。早く 来ねえかなあと内心でつぶやいて、何度目かもわからぬため息をつく。ドアは 閉ざされたままだった。しかしそのとき、聞き捨てならない会話が耳に入った。 アーサーにはあまり馴染みのない二国、というよりアーサー個人が興味を持って いないせいでそう感じるだけなのだが、彼らは確かに菊と言った。ヘラクレスと サディクが何やら写真のようなものを片手に喧々囂々と何やら言い争っている。 暇つぶしがてら近寄ってその写真をひょいと取り上げてみれば途端「あってめ!」 だの「あ、俺の…」だのとそれぞれテンポの違う非難めいた声が上がる。構わず 写真に視線を落とすと中心で菊が珍しくも怒りを表して眉根を寄せ、くちびるを 噛んでいた。へえ、よく撮ったなあと感心していると次の瞬間にはあっという間の 早業で奪い返される。聞けば撮影したのはヘラクレスで、カメラを貸したのは サディクらしい。喜怒哀楽がわかりづらい上にそもそもはっきりと感情を表すことを 良しとしない菊をどうやってここまで駆り立てたのかは知らないが、ともかくうまく やったものだとアーサーは思った。焼き増ししてやんねェかんなと頷きあい敵意を 全面に出す二国にいらねーよと応えてアーサーは立ち去った。負け惜しみでは ない、怒った顔よりもっと特別なものを知っているからだ。わざわざ教えてやる つもりはなかったから言わなかった。どうせ菊がまだ来ないならひとりきりに なれる場所がいいとティーカップを持って移動する。あてもないまま会場周辺を うろついているとたまたま人気のないフロアがあったので失礼した。窓際の席に 座り、一口紅茶をすする。怒った顔より特別なのは泣き顔だ、とアーサーは思う。 惜しみなく与えられる快楽に声を殺そうと己の指を噛み、苦悶の表情で耐えて いるそれが限界を越えてついに精を吐き出すとき、伏せられた目に溜まった涙が 筋を作って流れ落ちる、あるいは容赦ない責め苦に堪えるのも忘れて喘がされる まま、紡がれる声は意味をなさぬものばかりになりその中にアーサーの名や 無体を責める文句が加わるそのとき、幾筋も涙が伝った頬はしっとりと濡れて いる。どうだ、こればかりは俺しか見たことがないだろうと心の内で自慢する。 菊というこの世に二つとない存在と情を交わしている事実を世界中に知らしめて やりたい気持ちはあるが、秘密を保持し続けたい優越感とがない交ぜになって いつも後者が勝る。結果、こうして一人でいつかの夜を思い出してニヤニヤと笑う ことになるのだ。人のいるところでは気持ち悪いだの気味が悪いだの言われ 放題だ、アーサーにはそれこそが負け犬の遠吠えに聞こえる。けれどアーサー にも見たことのない菊の表情があるのだ。性的な場面においての涙ではない、 泣き顔だ。最高の泣きゲーなんですよと言ったくせに涙のひとつさえ浮かべず 淡々とプレイする横顔を思い出す。彼は一体いつ、どんなときに泣くのだろう。 花弁をしとどに濡らした梅雨の雨粒がやがてその重さに耐え切れずゆっくりと 地面に落ちていくように、わずかに震えるまつげの下、一瞬たりとも目を離さず しっかりと射抜いたまなざしから静かに一滴の涙が零れ落ちる瞬間、そこにある 感情は一体何なのか、何故彼は涙するのか、それを己が理解できたとき、この 目に映るその雫はどんなに美しく見えるのだろうか。アーサーにとって菊は いまだ底なし沼のように深く遠く、すべては知り得ない、探究心と焦燥を煽る 鉛色の空であった。あちらの悪天候が嘘のように、アーサーの目の前には青い 空がある。 |