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「これに関しては赤のほうが合うかもしんねーなあ」 そう言ってフランシスは持参した十本ほどの瓶の中からひとつを取り出すと 慎重に栓を開けて少量だけ新しいグラスに注いだ。往々にしてサプライズが 好きで、いつもは予告なしに訪れることが多いフランシスがやけに丁寧にアポを 取ってきたかと思えば要は料理のリクエスト。仕事を放り出して遠く日本まで 押しかけてきた理由はひとえに本国より一足早く解禁にありつけるボジョレー ヌーボーのためだ。牡蠣を食べたいと言うフランシスのリクエスト通りシンプルに 生牡蠣にレモンを添えただけのものやフライや蒸し物や鍋などを用意していたの だが、先の発言は土手鍋をつまんだときのものだ。生牡蠣に合わせた白ワイン の入ったグラスは一時お役御免となり、フランシスは慣れた動作で注がれた 真っ赤な液体を取り出した白いハンカチに透かして色を見、鼻を近づけグラスを 回して香りを確かめたのちに口に含んで空気とワインを撹拌する。そしてようやく OKが出て、同じように注がれた菊はためらいなく口に運ぶ。その銘柄も産地も もっぱら日本酒や焼酎派の菊にはわからないがそれでもおいしいものはおいしい とわかる舌の持ち主だ。濃厚な味噌味がついた牡蠣を口に含んでから飲むと なおさらだ。確かにこれはいいですねと思ったままに言葉にすると、フランシスは だろ?マリアージュだと満足そうな笑みを浮かべて喜んでいた。マリアージュは もともとフランス語で結婚という意味だが、ワインと食材の相性の良さを指すとき にも使われる。ワインと食材の結婚とはなんともフランス人らしい感覚だと菊は 思う。ワイン選びに納得したフランシスは夕食抜きで日付が変わるのを待って いたせいもあり食欲は旺盛でちゃぶ台の上に並んだ料理を次々と平らげていく。 料理によってはまた白ワインに戻ることもあったがその上機嫌ときたら日本は フランス人の救世主だよほんとにと70年代に全滅しかかったフランスの牡蠣の 危機に日本の牡蠣を輸入し窮地を脱した経緯を挙げ、もーだいすきと殻にキス さえしている始末だ。 「おいしいのはいいですけどね、どうするんですかこんなたくさん」 まだ封を開けていないワインばかりだが、ワインは確か温度とか湿度とか管理 が大変なんじゃなかっただろうかとフランシスの家のワイン庫のことを思い出して 聞くと当の本人はひどくあっさりと押し入れの下に寝かせとけばいいからとむしろ 食べるほうに夢中なぐらいで、それで大丈夫なんですか?と念を押して聞けば 熟成させるタイプでもなければ扱いはそんなものなのだという。そうかそんなもの なんだ、と安堵して負けじと剥き身を頬張る。深まる秋に月は冴え冴えと美しく 輝いているのに色気より食い気とはまさにこのことだ。障子の向こうにあるだろう ほったらかしの月を見遣って菊はこっそり笑った。 |