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※史実の一部がブラックなかんじで混ざっています注意! ※ログ30とセットでどうぞ 由緒ある武家の末子として私が生まれてすぐ、父は藩の大事に巻き込まれて 家は没落したという。路頭に迷った父母はせめて赤子の私だけでも満足な暮らし をと商人の家に里子に出し、その不遇の末路を聞かされてまもなく養父母も 揃って流行り病で没した。縁起の悪い子供と口々に言われた私に引き取り手は 現れることなく結局は人買いの手に渡り、それからも私の身柄は一所に落ち 着かず流れ流れてついには明の奴隷船へと売られ、はるか海を渡り欧州の地へ たどり着いた。男子としてはお世辞にも恵まれたとは言えない体つきの上、漕ぎ 手としての拷問のような日々は私を死の寸前まで追いやっていた。けれど生きて いたのはまだ幸運だった。飢えや疲労や折檻で次々に死んでいく奴隷を間近で 目にしていたからだ。今後の使い道に困ったのか商人は到着した港ですぐに私を 売りに出した。そこがヴェネツィアだった。長い航海で明の言葉は解しても西洋の 言葉はまるで意味のわからない暗号であった。通り過ぎる人々の出で立ちも 奇妙だが、向こうは向こうで奇異の目を私に向ける。弱った体では枷を押して 逃げることも叶わない。珍しい売り物でもない私に目をかける人もなく、朦朧と した意識と絶望の中で市場の隅に横たわっていた。それが突然、顎を掴み上げ られて驚いた。その手は仮面をつけた男から伸ばされていた。顎に少しばかり 髭をたくわえた西洋人でもなさそうな容姿の男だ。男は商人と何事かやりとりを したが、すぐに話がついたのだろう。死に掛けの東洋人の奴隷など、値段を ふっかけるような価値もなければ値引きをさせる価値もなかったに違いない。 軽々と担がれてどこかに運ばれて、次はこの男に買われたのだと理解した。 異国の甘い香をまとった男だった。心地のいい温もりと揺らぎにそのうち 気を失って、目を覚ましたときには私は手厚く看病されていた。鞭で打たれた 無数の傷、枷が食い込んで壊死しかけた手首足首の傷、一つ一つに丁寧な 治療が施され、日に三度の充分すぎる食事を与えられ、言葉が通じないのだ と知るとご丁寧に通詞まで用意された。仮面の男は飽かず私のそばにいて、 今まで受けたこともない親切に恐怖し身を震わせながらひたすら感謝を述べると なに、どうってことねえ、その代わりアンタ、アンタの一生は俺が貰い受けるぜ と白い歯を見せてニッと笑った。当然、男には私を好きにできる権利がある。 姓奴のように惨めに扱われて打ち捨てられても文句もないというのにその後 奴隷にはもったいない言葉や作法など熱心な教育を受けてやがて私は男の もとに正式に引き取られることになった。目も眩むような見事な宮殿の外まで 出迎えに現れた男は仮面をつけていなかった。数え切れないほどの人々が 男にかしずく。男がスルタンと呼ばれる帝国の王であることを知ったのはこの ときだ。絹のベールをそっと私にかけ、男だってェのは内緒な?と悪戯っぽく 笑いながら耳元に囁いた。今イクバルと呼ばれることもある私は確かに幸運だ。 その血を継ぐ子を残せない代わりにあの方のためなら命でも捧げようと決めて いる。たとえ血塗られた玉座につく男であってもだ。夕焼けに染まる海の果て、 故郷を遠く懐かしく思いはしても決して逃れようとは思わない。黄金の鳥かごと 名づけられた制度のもと一生を幽閉されて暮らす彼らのように、私の心もまた 囚われているのだから。 |