※史実の一部がブラックなかんじで混ざっています注意!
※ログ31とセットでどうぞ




 監視役にも等しい侍女や宦官をまいて庭の隅に立つと夕暮れの湾は光の塊を
砕いて散りばめたように、あるいは銀の鱗を持つ魚が群れをなすようにキラキラと
輝いていた。もしかしたらそれらは魂の新しい形なのかもしれないとヘラクレスは
考える。義兄がスルタンの座についたとき、この世に生まれ出でるはずだった
義弟たちは母体ごとその湾の底に沈められたと聞く。自分も似たような運命を
たどる寸でのところで宮殿の一角にて一生幽閉するという制度が設けられ、幸か
不幸か命拾いをした。義兄を恨む気持ちがないわけではないが、帝位というのは
今までそうやって守られてきたのだと知って血塗られた玉座に座る義兄が逆に
哀れに見えさえした。元々ヘラクレスはスルタンなどなりたくなんかなかったし、
これからだって同じだと言ったところで誰も信じてはくれないだろう。ヘラクレスの
望むものは昔から変わらず権力ではなく自由だった。エーゲ海に面した貧しい
漁村から売られてきた女奴隷がのちにオダリスクとなった彼の母だ。スルタン
お手つきになり幸運を意味するイクバルとも呼ばれた彼女は確かに幸運では
あっただろうがそれが幸福な人生だったとヘラクレスは思わない。現にイスラムに
乗っ取った名前もヘラクレスにはあるけれど母と面会するとき彼女は決してその
名を呼ぼうとはしなかった。思えば信じる神を無理やり奪われた彼女なりの抵抗
だったのだろう。自由のない暮らしに忌まわしい慣わし、身も心も固く縛られる
教えにヘラクレスは心底辟易している。叶うなら今すぐこの丘を駆け下り海に
飛び込んで、遠く離れた母の故郷の青い海まで泳いで果てたいと母の死を経て
最近強く思う。尖塔やモスクの屋根を視界から追い出し石造りの塀を猫のように
バランスを取ってお気に入りの場所に行こうとするとにわかに耳慣れぬ歌が
聞こえてきた。何を歌っているのかもわからない。おそらくは遠い異国の歌だ。
その歌声をたどっていくとヘラクレスのお気に入りの場所に先客が座っていた。
海峡だって見渡せる絶好の位置なのに。そこ俺の場所、と思わずつぶやくと
振り向いた小柄な人影からベールが落ちてその容貌がよく見えた。髪の色、
肌の色、瞳の色、さまざまな女性がハレムにはいたが、一目で美女とわかる
華やかな容姿と豊満な肉体を持つ女性を好むはずの義兄の趣味からしたら
珍しい地味な印象を受ける小柄でおうとつの少ない女性だ。侍女というのは
考えにくい。それにしては質のいいものを身につけている。衣擦れとあまり派手
ではない装飾のシャラシャラという音をたててすぐに女性は立ち上がり、お初に
お目にかかります殿下と予想よりも低い声ながら柔らかい物腰で頭を下げた。
名乗ったそれは近頃噂に聞いていたハレムに入ったその日に個室を賜った
イクバル中のイクバルと名高いその人であった。義兄自らヴェネツィアの奴隷
市場で買いつけたという話だが随分と癖のないきれいな発音でトルコ語を話す。
しかし元は異教の民であることは一目瞭然だった。君の、本当の名前はなんて
いうの?と聞けば菊と申しますと女性は言った。俺はヘラクレス、と答えると
そうですか、ではヘラクレス殿下、あなたのお噂は陛下から聞き及んでいます、
とてもやんちゃでいらっしゃるそうですねと花のように微笑んで見惚れる間もなく
菊を呼ぶ声がどこからか聞こえてあなた様の場所を陣取って申し訳ありません
でした、それではとベールを翻して逃げる去っていった。そういえば寵姫の素顔を
見てしまったのはまずいことだ。義兄に知られたら何を言われるか。何しろ蜜を
集める蜂のように落ち着きのなかったあの義兄が菊が来て以来ハレムは解散
してもいいと言わしめるほどに夢中になっているというのだからどれぐらい愛情を
注いでいるかわかるというものだ。ついでに脳裏に浮かんでしまった義兄の
髭面にうんざりして、振り払うように顔を左右に揺すって気を取り直しヘラクレスは
さっきまで菊の座っていた場所に座り、あの歌を思い出していた。不思議な
寂しい旋律の、遠い異国の歌だった。





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