|
※死にネタ注意! ※世にも奇妙な物語「喉が渇く」パロ 事業の着手にあたりまずは現地の砂漠の詳しい調査を、というのが会社の 指示だった。長いあいだひとりで企画を推進してきた菊は何も迷うことなくその 役目を負ったが途中で乗った車のタイヤが運悪く深い砂に埋もれ、うんとも すんとも言わなくなってしまった。こうなれば世界中で持て囃される日本車も 形無しだ。現地のコーディネーターや通訳、本社の菊を案内すべく遣わされた 支社の人間など、他の者を乗せた車列は菊に気づくことなく見る間に遠くなり 砂丘のかなたへと消えていった。助けを呼ぼうにも携帯ではどうにもならない。 幸い、車には燃料のほか水も積んであった。こんなところでおめおめと死ぬわけ にはいかないと生への執念を燃やし、菊はタンクに紐を通して引きずるように 歩き出した。町からどれぐらい離れているのか見当もつかない。行けども行けども 砂漠は続き、そこは生命の息吹をまるで感じられない乾いた地獄であった。後の ことを考えて少しずつ摂取した水ではあっという間に喉は渇き、容赦ない灼熱の 陽射しの下で脱水症状は確実に進んでいく。もとから重い砂を掻き分けて進む には相当体力を削られたが、ともすれば途切れてしまいそうな心許ない意識では 確かな一歩を踏み出すことすら難しくなった。我慢できずにタンクの水を飲もうと すると、すでに一口分の水さえ残されてはいなかった。絶望感などとっくに飽和 している。菊は空のタンクを放りほとんど無意識に近い状態でそれでも一歩一歩 足を進めていく。何のことない、それは取りも直さずただただ生きて帰るためだ。 友人の顔、恋人の顔が思い浮かぶ。彼らは祖国で自分の帰りを待っている。 それだけが今の菊を支えていた。しかし限界はじきに訪れた。熱を持った砂地に 倒れ込むと再び起き上がる力はもう湧いてこなかった。もはやこれまでか、そう 思ったときだ。視界の先に小さなオアシスが陽炎に揺れて存在しているのを 見つけたのだった。水がある、その希望は菊の最後の力を奮い立たせた。小さな 池ではあったが菊の渇きを満たすには充分だ。冷たく清らかな水に上半身ごと 顔を突っ込んで窒息しそうなほどその恵みを味わい、生き返ったような気持ちで 大の字になる。これで助かるんだと菊は日頃の自分からは想像もつかない 大きな声で思うがまま笑った。やがて菊は救助され、無事生還を果たす。行方 不明の知らせを受けていた会社や上司からはよくぞ生きて戻ったと諸手を挙げて 歓迎され、昇進の話まで舞い込んだ。中でも喜びようが激しかったのは友人の フェリシアーノだ。仕事を放り出して迎えにきた彼は、ゲートから菊がその姿を 現したその瞬間、空港中に響くような泣き声で名を呼びきつくきつく抱きしめて きた。よかったよーよかったねーよく帰ってきたねー俺ねえ俺ねえずっと神様に 祈ってたよもうパスタ食べられなくなってもいいから菊を助けてってずっとね、と 子供のように言い縋るさまに菊は愛おしく自分より高い背のフェリシアーノの 頭を気の済むまで撫で続けたものだ。今はそのフェリシアーノも落ち着きを取り 戻して、昇進の話を聞きつけたのか仕事の合間にお祝いだよと缶コーヒーを 渡してきた。本当のお祝いはまた別にやろうねと微笑む彼に笑みを浮かべつつ 早速口をつけると、口の中に入ってきたのはコーヒーではなく砂であった。菊は 思わず吐き出して、缶の中身を地面にぶちまけると缶からは砂が延々と落ちて いく。呆然とその様子を見守っていると「ねえ菊、それ何してるの?」と不審そうに 言われ、もう一度缶を見るとそこからはコーヒーが流れ落ちているばかりだった。 「ご、ごめんなさい、少し疲れているみたいです」と慌てて取り繕うと「そうだよね、 あんなことがあったばかりだもん疲れてるよね。休暇でもとってしばらくはゆっくり するといいよー」とフェリシアーノは苦笑いで去っていく。あの幻は一体なんだった のか、不思議に思いつつもやはり疲れのせいだと大して気にも留めず、いつも どおりの仕事に菊は戻っていった。だがその頃から菊は何かに取り付かれた ように異常に喉が渇いて仕方がなかった。ペットボトルの水が恐ろしいほどの 量で消費されていく。一度に飲み干す量も、はじめは500ミリリットルのペット ボトルだったのがすぐに2リットルに変わった。一時間に何本も飲むこともある。 飲みすぎですよと部下に注意されると人の目を気にして今度はトイレの蛇口に 頼ることになる。手のひらいっぱいの水を、何度も何度も際限なく貪るように繰り 返し飲み干した。おまけに異常に暑くて仕方がなかった。確かに季節は真夏で あったが、女子社員たちがみんなカーディガンを羽織ってもなお寒さに震える ほどの温度設定をもっと下げてくれませんかと頼みだす。もうこれ以上はと嫌がる 部下に、お願いですからもう1℃だけ、1℃だけ下げてくださいと菊は頭を下げた。 それでも暑さには変わりがなかった。そして幻は恋人のルートヴィッヒと食事を しているときにも現れたようになった。あの日再会した空港で、滅多に己という ものを崩さない彼が果たして今後お目にかかれるかどうか、隠しもせず涙を 浮かべていたのを菊は知っている。お前が死んだら俺も死んでしまおうかと 思っていたとらしくない発言によほど思いつめていたのだろうと思う。どちらから ともなく激情のまま人目もはばからずくちづけあったことで、フェリシアーノには いいからかいのネタを与えてしまった。けれど構わない。二度と会えなくなる ところだったのだ。それに比べたら多少の羞恥など瑣末なものだ。ゆえに幸せを 噛み締めた食事であるはずが、口に入れた料理は砂のじゃりじゃりとした感触に 変わり、反射的に手の内に吐き出すとそこにはただ咀嚼された食べ物がある ばかりだった。ルートヴィッヒは気遣わしげに「具合でも悪いのか?」と聞いて くる。幻を見たと言えば余計な心配をかけてしまう。きっと自分は疲れているだけ なのだからと言い聞かせ、「いえ、そういうわけじゃないんですが…」と答える 菊の顔色は意思に反してすっかり青ざめていた。ルートヴィッヒは食事を中断して 菊の家へと連れて行く。ベッドに寝かせると本当に大丈夫ですよ?と菊は不安を 拭えないままに作り笑いを向ける。余計不安に煽られて薬は?水は?と室内を 慌しく歩き回るルートヴィッヒに、菊はそばにいてください、それだけでいいんです と心の底から微笑んだ。そうして溜めに溜め込んできたルートヴィッヒの感情は 再び決壊し、愛する人が無事生きて帰ってきてくれた喜びに感極まっていつもの 自制心もきれいに消え失せて性急に食らいつくようにキスを迫る。菊もまたその 気持ちに応えようと受け入れるも、舌と共に入ってきたのはやはり砂であった。 菊は襲ってきた恐怖に耐え切れずルートヴィッヒを突き飛ばしてしまった。それは 事情を知らない彼にとっては拒絶でしかなかった。すまなかったと言葉少なに、 悲しみを浮かべた表情で彼は去っていく。そうではない、そんなつもりではない のだと慌てて追いかけようとする菊はそのとき天井から砂の筋がいくつも落ちて きているのに気がついた。土砂降りの雨のように降り注ぐ砂、砂、砂。勢いは 留まることを知らず、続いて窓の隙間からクローゼットの隙間からも噴き出した。 部屋は砂で埋まっていき、菊はとうとう悟った。これはすべて、死ぬ間際に見た 幻だったのだ。元は水を湛えた池であっただろう乾いた窪地に顔を突っ込み、 菊は倒れ伏している。薄れていく意識の中でかつて栄えたオアシスの町の 残骸、壊れたトタンの看板が砂混じりの風にキイキイと揺れる音が聞こえた。 しかしそれも徐々に遠ざかる。ああ早くこの目を閉じなくては。二度と会えぬもの なら幻でもいい。あの愛しい友人とお祝いのパーティを、それから愛するあの人に 謝って、キスの続きを…。風は変わらず唸るように吹いている。壊れたトタンの 看板はキイキイと鳴って、砂漠は元の生命の息吹のない乾いた地獄に戻って いった。 |