※初期の習作サルベージ




 故郷の冬より数段堪える寒風に凍えながら浅い眠りから覚めた朝だった。
水道の凍結に備えた水がめの中身も表面は薄く凍りついてまずそれを木槌で
割るのが最近の日課だ。口をすすぎ衣服を着替え、髪も整えた頃に遠くから
草履の足音が聞こえた。その固有のリズムで、ローデリヒは草履の主が誰か
把握することができた。自由に出入りしていいと言い置いた門から飛び石を
踏んで近づく。この時点ですでに胸の奥で凝り固まっている何かがほぐれて
いくのを感じる。おはようございます、と温かみのある声に顔が緩む。おはよう
ございます、と返すと予測どおりの顔がそこに立っていた。
「ローデリヒさん、何かご不自由はないですか?」
 俘虜として遠く異国の地にあって、毎度そう言っては寒空の下でもたびたび
訪ねてくれる青年の存在は大きく、招くたびに彼を手製の菓子でもてなすのが
ローデリヒの唯一の楽しみだった。菊という美しい花の名をした青年は慣れぬ
生活を何かと気使ってくれてあれこれと手を回してくれる。手慰みの菓子作りの
材料や道具も彼の便宜で手に入れたものが多い。もともと菓子作りの職人では
なかったが昔から得意だったのはきっと来るべき未来、彼を喜ばすべく神から
授かった贈り物なのだろう。元はといえばローデリヒは親善のためアジアを
訪れていた海軍士官だったのだが、その最中に大戦が勃発しプロイセン皇帝の
横槍で両国共に不本意ながら戦うことになり、のちに俘虜となった身である。
とはいえ士官の地位にあったローデリヒには個人の家が与えられ、ほぼ自由が
約束されているという厚遇。不自由といえば木と紙と草で作られているという
日本家屋特有の寒さともうひとつ。
「…ピアノが弾きたいなあと、たまに思うのですよ」
 そう呟いたのは昨日焼いた菓子と大豆の代用コーヒーを出し、菊がしきりに
聞きたがる故郷の話をしているところだった。ふと思い出したのは幼い頃から
習っていたピアノ。父も母も音楽家で休みともなれば家族でモーツァルトなどを
演奏するのが家族の慣わしのようなものだった。いつ祖国に帰れるのかも
わからない今となっては遠い遠い思い出だ。
「ピアノ、ですか」
 途端、俯いてしまった菊の表情は暗い。どうせ叶うまいと承知の上で口にした
言葉だ。どうにかしてほしいわけではない旨を弁解をして、代わりに子供の頃
弾いたメロディを鼻歌でうたいながらテーブルを鍵盤代わりに指を置く。聞き
慣れた日本のわらべ歌や軍歌とはまるで違う異国の旋律に菊の目は輝き、
叶うなら自分もローデリヒの弾くピアノを聞いてみたいと思った。
「本当にピアノがお好きなんですね」
「ええ。これでも昔はピアニストを目指していたのですよ」
 望んで軍人になったわけではなかった。生まれた時代が悪かったのだと諦めて
いることを語れば菊はそうなんですか…と再び肩を落とす。俘虜となったのも
彼の国が悪いわけではない。友好関係にあった国同士が敵対することになった
のもきっと生まれた時代が悪かったのだ。だがこの戦争も必ず終わり、平和は
またやってくると信じている。そうしたら血なまぐさい軍人など早々に辞めて昔の
ようにピアノなど弾いて穏やかに暮らすのがいいだろうとこの頃特に強く思う。
するとしばらく畳に目を落としていた菊が突如、思い出したように顔を上げて
言った。
「ピアノ、なんとかなるかもしれません」

 それから数日経った早朝、やって来た菊はいつもより長い距離を走ってきた
らしく、ぜーぜーと肩で息をしている。ひとまず水を出そうかと思うや否やどこか
連れていきたいところがあるということで、急かされ手を引っ張られるままに
ついていくと収容所近くの丘の上、今は誰一人児童のいない木造の校舎の
音楽室に古びたピアノがあった。古いながら手入れされたばかりのようで指紋
ひとつもなく見事に黒光りしている。
「許可をとって調律もしてもらいました。さあ、存分に弾いてください」
 菊は嬉しそうに笑みを浮かべ、借りてきた鍵で開ける。懐かしい、白と黒の
鍵盤。信じられない気持ちで呆然としているとぽんぽんと椅子を叩き招かれて
ローデリヒは座った。久々の感触に震える指先で鍵盤に指を乗せれば、確かに
狂いのない音がポロンと鳴った。菊を見遣れば木漏れ日のようなまぶしくも
穏やかな笑顔でこちらをじっと見ている。ああ、なんということだろうと内心で
つぶやいた。改めて椅子に座り直し、ローデリヒは言った。
「あなたのためにささげます」
 本職ではない歌はけして上手ではないし自信はないが歌いながらその曲を
演奏した。彼のためにベートーベンのIch liebe dichを。神の恵みがあります
ように、私の一生の喜びであるあなたに神の恵みを、あなたにそして私にも、
どうか二人をお守りください。他にふさわしい曲が見当たらなかった。きっと
ドイツ語のこの歌詞の意味は菊に伝わることはないだろうけれどこのために
大変な苦労したに違いない彼にただその気持ちを表したいばかりだった。
「本当に、素晴らしいですね」
 そうしてたった一人の観客は盛大に手を鳴らしてくれた。演奏はそれから
故郷にまつわる曲を何曲か、先日の鼻歌も含めてと続く。いつの日か平和に
なった世界で山や川の美しい生まれ故郷に彼を連れて行きたいと願いながら。





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