イエローブックと呼ばれる本がある。我々日本人はつい分厚い電話帳を思い
浮かべがちだがイギリスの、特に園芸愛好家にとっては欠かせないのもので、
簡単に言ってしまえば一流の園芸オタクの自慢の庭を見るために欠かせない
ガイドブックだ。実のところ私はとりわけ園芸好きというわけではなく花を見ても
美しいだとか可愛いだとか、ごくありふれた賞賛しか持ち得ぬほうである。にも
関わらず、三千以上もの個人宅が掲載されたイエローブックの中から私がその
庭を選んだのはその主が種苗業を営んでいて見応えが保障されているからと
いう理由でもない。他の来客からすれば不純な目的となるだろうが屋敷の隣に
あるティールームがすこぶる評判だったからだ。ティールームは庭の主と結婚
した日本人が経営し、もちろん紅茶も茶菓子もうまいらしいが何よりランチタイム
には祖国を離れて久しい胃に強く訴えるものがある、定食スタイルの日本食を
提供しているというのだ。ロンドン市内の下手な寿司レストランに足を運ぶより
よほどいいと訪れたことのある友人は保証する。行こう行こうと思っていたのに
なかなか機会に恵まれず先延ばしになっていた折、ちょうど庭の公開日が近い
ことに気がついた。私はいよいよ以って決意したわけだ。幸先よく天気も晴れだ。
庭の構成員たる植物たちはみな生き生きとして見える。案内をしてくれたヘッド
ガーデナーはよく口の回る男で、盛りを迎えて華やかな薔薇の数々や、ナマクア
ランドの花畑のように群生した草花のひとつひとつまで説明をしてくれた。中には
かつて隆盛を誇ったプラントハンターの遺産である水色や紫、桃色のアジサイが
薔薇に負けず劣らず色鮮やかに咲き誇り、不思議とイギリスの庭に溶け込んで
いる。あいにくと時季ではないが、この庭にはツツジや椿といった日本に関わり
深いものがたくさんあるそうだ。庭の主の日本に対する親しみは伴侶に対する
愛情を垣間見せてとても優しい。ひと通り庭を拝見し、礼を言って立ち去ろうと
するとあまり上手でない発音で「サヨナーラー」とヘッドガーデナーは人懐っこい
顔で手を振った。別れの挨拶は件のマダムにでも教わったのだろうか。こうして
庭の見物も済み、いそいそ本来の目的であるティールームに向かった。そこは
看板すらない。特別名前をつけていないのだ。元は庭を見に来たご近所さんを
もてなすための私的なティールームだったそうだ。店として開業したのも食事を
供することになったのもご近所さんの強い要望がきっかけだったという。注文を
取りにきたギャルソンエプロン姿の小柄なマダムにまず紅茶と茶菓子を頼もうと
して私は驚いてしまった。他の客にもマダムマダムと呼ばれているものだから
主の配偶者は女性だと思い込んでいたのだ。そうか、そういう選択肢もあったの
だなと私は狭い価値観を咳払いで吹き飛ばし、改めて注文しなおした。よくある
ことですからと"マダム"は気にしない様子で笑っていたが、同じ祖国を持つ者
同士の勘というべきか、それは表向きだけに違いなかった。"マダム"は日本人
男性としても小柄なほうであり、穏やかな物腰は男らしさとはかけ離れて見える
反面、女性らしく見えるかといえば否、とにかく不思議な雰囲気の持ち主である。
年齢を推測するのも難しい。注文を受けてから新たに湯を沸かして淹れる本式の
紅茶は生粋の英国人が淹れたものと遜色なく、日替わりの菓子もホームメイドの
印象が強いものの決して安っぽいとか味が劣るのではなく、懐かしさを感じつつ
紅茶とマッチングする絶品であった。次いで定食を注文すると"マダム"は困った
顔で今ちょうどご飯を炊いているところなんですと言った。のんびり庭を見ている
あいだに遅れを取ってしまったようだ。けれど今日のメインディッシュがトンカツと
聞いては日を改めるわけにもいかない。空の胃袋がどうしても食べたいと言って
いる。炊き上がるまで待つので問題ないと伝えるとそれではあと20分ほど待って
いただけますか?と"マダム"が尋ねるので私は赤べこのごとく繰り返し頷いた。
実際20分などたいしたものではない。わざわざそれを気にかけてお待たせして
申し訳ありませんからと"マダム"は客が引くのを見計らって公開していない庭を
見せてくれるという。エプロンを脱いで入り口に準備中の札を掲げる"マダム"に
庭目当てではない私がそこまでしてもらっては逆に申し訳なかった。営業に差し
障りがあるのではと聞けば、どうせ趣味みたいなものですからお気になさらずと
花が咲くように朗らかな笑みを作った。なるほどさしもの英国紳士も恋に落ちる
わけである。屋敷の陰で見えなかった"秘密の花園"は温室と祖父母の田舎で
見たようなきゅうりや茄子など野菜の苗が伸び伸びと育つ雑然とした畑で、表の
庭と比べると落胆は隠せない。しかしひとたび温室に足を踏み込んでしまえば
視界が一変する。"秘密の花園"に相応しく多種多様な薔薇が咲き揃う温室は
香りに満ちていた。主は育種家でもあるのだと"マダム"は誇らしげにまだ名の
ない薔薇を紹介してくれた。ふと気づくと温室の隅で一株一株の状態を見ながら
水をやる金髪の男の姿があった。四十手前ながら全英に名の知られたやり手の
社長だ。てっきり絵に描いたような英国紳士と思っていたのだが剣呑な空気を
纏った男であまり人を連れてくるなと言っただろうと流暢な日本語で呆れ気味に
ため息をついた。開発途中の薔薇を見せたくないというよりはその見知らぬ男は
誰だといった本音が透けて見えるのが何とも微笑ましい限りだ。夫婦は今日の
夕食について会話し、メインディッシュがトンカツと知るやカレーの有無を確認した
"サー"はすぐさまおととい食べたばかりでしょうにと一蹴されていた。英国人は
カレーが好きだという噂は本当なのか、"サー"がいわゆるキレンジャーに属する
のか私は知らない。このやり取りを聞いてわかったのは彼ら夫婦において権力を
握っているのは"マダム"のほうであるということだ。おまけに店に戻る道すがら
惚気話を聞かされた。若き日の"サー"は日本に留学中、近所に住む"マダム"に
一目惚れをしたのだそうだ。紆余曲折を経て無事交際を始めたはいいが肝心の
一言が出てこない。結局遠距離恋愛に至り成田とヒースローを行ったり来たり。
そのまま十年ばかり生煮えの年月が過ぎたある朝、新聞を読んでいた"サー"は
食事の用意をしていた"マダム"にオイとぶっきらぼうに声をかけ、何かと思えば
目を伏せたまま唐突に結婚しようとプロポーズしたそうだ。あの人、ほんと照れ屋
なんですよねと苦笑する"マダム"は幸せに溢れて独り身には辛いところだった。
ようやく完成したトンカツ定食はおふくろの味がして里心がついて仕方なかった。
代金を払って帰ろうとしたとき"マダム"が漏らした言葉に一瞬どきりとする。あの
人、私を選んだせいでひとつだけ不幸なことがあって。不幸という割に深刻そうな
気配はなかったが、あとから聞いた話でその正体が判明してああ確かにと納得
したものだ。育種家は往々にして我が子のように手間隙かけて開発した作物に
家族、花ならば特に妻の名前をつけたがる。だが"マダム"の名前が"菊"では
たっぷり愛情を注いで育てた薔薇に愛しい伴侶の名を付けることも叶わない。
"マダム"曰く、私よりずっとおいしい紅茶を淹れるのに近しい人間にしか紅茶を
淹れないという一途な"サー"の苦い顔を脳裏に思い描いて、私は密かに笑みを
堪える。





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