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※霊感商法株式会社インスパイア その頃の世界は今ほど同性愛に寛容ではなかった。女は男を愛すものであり、 男は女を愛すものである。それは神から与えられた必然で、生物として繁栄を 続けていくためにも不可欠なことだ。その道から外れた俺たちは神にも同胞にも 見捨てられても仕方がなかった。それでもいいと思える相手に出会わなければ 俺も正しい道を選んでいはずだ。礼拝堂には喜びに湧く参列者も荘厳な音楽も ない。そもそもこの誓いを神が祝福してくれるとは思っていない。では何故神の 御前で愛を誓うのか?それは俺がまだ信仰心を捨てていないからだ。彼に巡り 会えたこと、これこそが神の導きだと俺は信じている。だから俺は神に誓うのだ。 病めるときも健やかなるときも変わらぬ永遠の愛を誓いますか。諳んじた台詞に まず誓いますと答える。そして俺は彼に問う。死が二人を別つまで、いや、死が ふたりを別っても君は俺を愛し続けてくれるだろうか?彼の返事を待つあいだの 早鐘を打つ鼓動に、出会った日のことを今でも昨日のことのように思い出す。 それは病気も怪我もなく天寿を全うしたとある老人が死んだ翌年の冬のことだ。 信仰深い老人とは週に数度礼拝に来ては世間話をする仲で、そういえば今日は 命日だったと在りし日を懐かしむ。酒場を兼ねた村で唯一の食堂で会うと小さな グラスに一センチ程度のウイスキーを注いでちびちび大事に飲むのがどうしても やめられないと皺くちゃの顔で苦笑していた。本来ならきつく咎めるべき牧師の 立場にありながら、俺はいつもほどほどにしておくようにとぬるい注意に留めて いた。親しい老人のささやかな楽しみを奪ってしまうほうが若い俺には聖書より 重く感じられたのだ。一度許した以上、命日ぐらいは久々の好物の味を墓前に プレゼントしても主はお目こぼし下さるだろうとは思ったが、まさか牧師が堂々と 酒を買いに行くわけにもいくまい。どうしたものかと悩んでいたところ、礼拝堂の 隅の席に訳あり顔で朝からずっと座っていた青年が唐突に声をかけてきたのだ。 金属製の使い込まれたウイスキーボトルを差し出して「どうぞお使い下さい」と。 まるで頭の中を覗き込んだかのようなタイミングに俺は狼狽え、ふと気づく。その ボトルは老人が持ち歩いていたのとそっくり同じで、石のように硬くなった指先で 愛でるように撫でていた何かの意匠まで同じだった。意匠について尋ねたことが ある。これは昔職人だった老人自身が入れたものだと。ならばこの青年は老人の 身内だろうか。しかし青年はどう見ても東洋人だ。繋がりはわからないが揃いの ボトルを見る限り随分と近しい間柄だったようだ。結局俺は彼とふたりで老人の 墓前にグラスにぴったり一センチのウイスキーを供えることになった。そのときに 彼が両方の手のひらを合わせて目を伏せていたので「君はブッディストか?」と 聞いた。青年は「いえ、生まれが日本なのでつい習慣で」と言った。この田舎で 東洋人に遭遇するだけでも珍しいのに日本人とは。ここいらの者ならもしかすると 日本という国がどこにあるかも知らない可能性もある。そういう俺も正確な位置と なれば自信がない。「いいんですいいんです、私も日本を離れて長いので」曰く、 ヨーロッパのあちこちをジプシーのように旅をしているらしい。老人とは俺がこの 教区に派遣される前に知り合ってしばらく住んでいたという。ともすれば少年と いってもおかしくない年齢に見えたが青年はかなり童顔のようだった。ボトルは 当時老人に譲り受けたものなのだろう。「いやですね…人の一生は短くて」まだ 新しい墓石に刻まれた名前を撫でながら青年はつぶやいた。俺はそうだろうかと 思う。確かに不幸にも若くして命を落とす者は少なくない。だがあの老人は違う。 一世紀近い年月は決して"短い"ものではないだろう。それでも青年が"短い"と 感じるならば、どれだけ長く生きれば人の一生は充分と言えるのか。俺にはその 疑問をぶつけることは出来なかった。青年が人目も憚らず老人の名を涙ながらに 呼んでいたせいだ。臨終の場にも葬儀にも立ち会えなかったことを何度も詫びて いた。単に友人や知人にしては情が深すぎる。あとで何か温かいものでもご馳走 するから帰りに寄ってくれと余計小さく見える声をかけて教会に戻った。小一時間 ほど待って冷たい風で手や頬も泣き腫らした目元のように赤い青年に、手作りの 菓子と温めたミルクを出してそのウイスキーを垂らして飲むといいと言った。すると 青年は「悪い牧師さんですね」と笑って来年もまた来ますとボトルを大切に抱えて 去っていった。 青年は言葉通り翌年もその翌年も老人の命日になるとあのウイスキーボトルを 持参して教会を訪れた。時間の経過と共に悲しみは薄らいでいくものだと思って いたが、青年は何年経っても涙を流して癒えない心の傷を見せつけた。いつしか 冷えきった体を温めるウイスキー入りのホットミルクは恒例のものとなった。「神父 さんでしたらあなたも飲めましたのに」と赤い目をして笑う青年は不思議なことに 最初に出会ったときから少しも変化がなかった。五年経ち、十年経っても青年は 少年と見紛う童顔の青年のままだ。俺ばかりが老けていって縁談もしょっちゅう 持ち上がった。「どうして結婚なさらないのです?」あるとき青年が尋ねてきた。 「ただその気にならないだけだ」と俺は答える。嘘じゃない。恋愛も結婚も俺には 別世界の出来事のように遠く感じる。「君こそどうなんだ」と尋ね返した。青年は 今も変わらず根無し草のような生活をひとり送っているそうだ。「…私もその気に なれないだけですよ」と青年は目を細めた。"その気にならない"のと"その気に なれない"のでは大きく違う。その違いの正体、年に一度少しの時間を共有する だけの俺にもそろそろ察しがついた。青年はおそらく老人を愛していたのだろう。 性別はともかく、年齢の問題は青年が老いない謎を考えれば片づく。あれから 一体何年が過ぎただろうか。白髪を見つける頃になると青年は俺の髪を何やら 楽しそうにいじりながら「あなた、あの人の若い頃に似てます」と言った。世の中 には永く永く生きる人間がいるそうだ。果たして同じ人間と呼べる生物なのか、 俺には区別をつけられない。けれど彼は我々と同じく泣きもすれば笑いもする。 愛することもあれば、愛されることもある。老人が生涯独身を貫いたのはそういう ことなんだろう。老人が若く、俺ぐらいの年に彼らは出会って恋に落ちた。男が 年を取って金の髪がすべて真っ白になっても、皮膚が皺だらけになっても彼は 男を愛し続け、そして今も愛している。彼の命がいつまで続くかなど本人も知る はずがない。ひょっとしたら死ぬこともないのかもしれない。これほど永遠に近い ものがあるだろうか。気づけば俺の心の中にあったのは老人に対しての紛れも ない嫉妬だった。永遠の愛を誓いながら人は死が別つのを待たずに愛を殺して しまう。だが永遠の愛は存在するのだ。俺はこんなに強く望んだことがなかった。 彼に愛されたい、あの老人のように、俺が死んだあともずっとずっと涙を流して 悲しんでもらいたい、決して癒えない傷を彼の心に刻みたい。そうして俺は恋に 落ちた。心の隙間に捻じ込むように彼の中に押し入った。侵食するように彼の 心を欲した。永く生きた余裕の成せる業か、彼は強引な求愛をすんなりと受け 入れて「あなた、やっぱりあの人には似てませんよ」とぼやいて困った風に眉を 寄せる。彼はそのまま教会に残って一年ほど一緒に住み、牧師を辞める前に 無人の礼拝堂でふたりだけの式を挙げることにした。「誓いますか?」新郎と 牧師の二役を務める俺の声に彼ははっきりと「誓います」と言った。今度は別の 意味で動悸が激しくなる。「それでは誓いのキスを…」台詞が途切れたのは口が 塞がったからだ。 十年二十年三十年。あっというまに時は流れて、俺も老人の仲間入りだ。年を 取らないことを怪しまれないように菊は一、二年で住処を変える。住処を変える たび俺たちは血の繋がらない兄弟だの、独身主義の男と東洋人の養子だのと さまざまな関係をでっち上げた。今なら祖父と孫でいけるかもしれない。もう少し 遅く生まれ、もう少し遅く出会えたなら胸を張って夫婦と名乗ることもあったかも しれない。心残りといえば心残りだ。暇さえあれば乾いて皺びた俺の手を撫でる 菊の瑞々しい指先が愛おしくてたまらない。老人はさぞ無念のうちに死んだこと だろう。最大の未練を残して逝かなければならないなんて。「どうか長生きして 下さいね、じゃないと悪い牧師さんと恋に落ちてしまうかも知りませんから、ねえ ルートヴィッヒさん」と小悪魔めいたことを言いながら、菊はいつも泣きそうに笑う から毎度ひどく胸が衝かれる。その指先にくちづけて「ああ、せいぜい健康に気を つけよう」と牧師を辞めてから覚えた酒を飲むのを止めて笑った。いつの日かこの 指先が俺の名前の刻まれた墓石を撫で、俺の名前を呼んで菊は悲しみに暮れる のだ。死が別っても朽ちない永遠の愛は限られた命であるこの手の中にあった。 |