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中学・高校・大学とそれなりに学習が必要だった英語とは違ってフランス語と いうものは発音からして難解でいけない。とはいってもそもそも英語自体苦手な 菊はシャルル・ド・ゴール空港で本当なら親切に書いてあるだろう道案内を読む ことも誰かに聞くことも出来ず、市内に通じる路線を探して完全に迷子になって いた。たまに日本人と思しき観光客も見かけるが、見当違いならもっと厄介だ。 だからフランス出張なんて嫌だったんですよ!と遠い空の下でこちらの苦労も 知らないでどっしり安楽椅子でふんぞり返っているに違いない上司の顔を思い 浮かべて内心でこっそりお土産のランクを下げる。重い荷物を引きずり広い広い 空港内を右往左往してすでに小一時間。早く本場のフランス料理が食べたいと やきもきしていると「落としましたよ」と流暢な日本語で背後から声がした。え? と振り向くとその主はド金髪、オシャレなヒゲを生やしつつファッションは決して 派手ではないのにキマってる、おそらくは純正フランス産と思われるイケメン。 そして彼の手にあったのは菊の御紋入りの赤い小冊子。人生初の海外渡航の せいで"パスポートや財布などの貴重品はウエストポシェットに"を受け入れて ビジネススーツにはそぐわない格好ながら忠実に従っていたはずなのに入国 審査後に安心してついポケットに入れてしまったのかもしれない。まさに地獄に 仏なフランス産イケメンに機内で必死に叩き込んできた付け焼刃のフランス語で 「め、めるしー。日本語お上手ですね」と礼を言うと「ああ、俺オタクだからね」と 答えになっていない答えと共にウインクをバチコンと寄越した。たとえオタクでも 女性だったらイチコロの威力に気圧されついでに駅はどう行けばいいか聞いて みる。イケメンは「あー…だからキョロキョロしてたのか。外国でそんな無防備に してたらだめよー?特にフランス人はカワイコチャン見つけたら手が早いからね。 財布ぐらいならいいけど、心まで盗んでいかれちゃうから」と忠告を与えた。菊は その台詞に某アニメ映画のエンディングを思い出した。「ちょうど俺も市内に帰る とこだから一緒に行く?ねえクラリス?」とやはりそっち系のオタクであることを 証明するイケメンに残念ですが私、男ですよと念のため釘を刺してみれば「俺は カワイコチャンならどっちでもいけるクチなんだよねー」とさらりと披露された危険 思想に菊は適度に距離を取って二人で駅に向かう。菊の目指していた駅が目と 鼻の先であったことには少々ガックリきたが兎にも角にもこれで無事空港脱出は 成功したので良しとすることにした。そうして菊は親切かつ危険なイケメンによる デートの誘いを固辞してメモに書かれた駅で降りる間際もう二度と会うこともない だろう彼に改めて礼を言って別れた。その後出張先にも挨拶を果たしてこれから 一週間滞在するホテルに向かう。するとその道すがら、またしても件のイケメンと 遭遇した。手をヒラヒラ振りながら「えーなに俺たちやっぱ運命とかじゃないの?」 と嬉しそうに肩を抱かれてその類の属性をまるで持っていない菊は声にならない 声でヒイイイと悲鳴を上げる。しかし窮地を助けてもらった手前、無下にはできず 耐えていると案外あっさりと解放されて「すぐそこに俺の店があるんだけど今から 来ない?」と誘われた。なんでもイケメンの本業は服飾関係ではなくパティシエで 日本式にさまざまな種類のケーキを切り売りしているらしい。菊の胃袋の本命は 濃厚でこってりした本場のフランス料理だが、本場のパティシエの作るケーキと いうのも興味がある。フランス料理はひとまず後回しでいいかと菊は誘いに乗る ことにした。ただし、イケメンと適正な距離を保つことは忘れずに。再会した場所 からたった一本向こうの人気の少ない通りにやけに少女趣味な外見のその店は あった。「うち、あんま儲かってないんだよね」と言葉通り、閉店後のガラスケース にはおいしそうなケーキが相当数余っている。もったいない限りだ。「どうせ捨て ちゃうもんだから好きなだけ食べてってくれると助かるんだけど」と言うので遠慮 なくご相伴に預かることしたものの、もしかして見た目はよくても味に何か問題が あるのかもとおそるおそるフォークを口元に運んだ。菊はこれでもかなりグルメな ほうだ。スイーツ男子の称号だって喜んで受けよう。けれどイケメンパティシエの 作ったケーキのどこに問題があるのかまったくわからない。パリジェンヌの口には 合わないとか致命的な理由でもない限り、何か別の原因があるとしか思えない。 次々にケーキを平らげる菊にイケメンパティシエは「いやーこういう食べっぷりを 見せてもらうと作り手として純粋に嬉しいよ。あ、グリーンティーもあるからさ」と 甲斐甲斐しく飲み物の用意をしながら少し寂しそうに笑うイケメンになんと声を かけたらいいのか気の利いた言葉もなく「日本だったら行列が出来そうなのに 残念ですね」と慰めるのが精一杯だった。ご馳走になったのは菊なのに褒めて くれたお礼だと、夕食は馴染みのフランス料理店に案内されて別腹とばかりに 舌鼓を打った。初日以降も一週間の滞在のあいだ両刀のイケメンパティシエこと フランシスは菊の仕事が終わると観光に食事にといろいろ世話を焼き、そのたび 手作りのケーキを味わう幸運に恵まれた。菊が帰国する日もまた迷ったりしない ように空港までついてきて「パスポートは持った?チケットは?」とお出かけ前の 母親のような持ち物確認をする。フランシス自身もその自覚があるのかくすくす 笑いながらわたわたとポシェットから取り出すのを待つ。中を探って菊は焦った。 パスポートはあるのにチケットがない。ホテルに忘れてきたとか、途中で落とした とか、スリに遭ったとか、最悪の事態が脳裏に浮かぶ。ホテルに戻るにも時間が 足りない。落としたか盗まれたとしたら出発まで見つかる可能性は皆無と言って いい。青ざめた顔でどうしましょうと今フランスでただひとり頼りになる人間である フランシスを涙目で見上げる。フランシスは別段動じた様子もなく、懐から一枚の 紙きれを取り出した。「これなーんだ?」それはまさしく菊が探していたチケットで 「だからおにーさん気をつけなさいって言ったでしょ」とあたかも既知の仲のような 口振りで注意を受けつつありがたく受け取った。電話番号もメールアドレスもあの 店の地図もメモしてある。日本から連絡を取り合うことも出来るだろうし、また憎き 上司から無理やり出張を押し付けられることがあれば再会することもあるだろう。 「しばらくのお別れですね」とキスやハグは菊の感覚ではアウトだったので右手を 差し出すとフランシスも同様に右手を差し出して「いや、すぐに会えるさ」と握手に 応じた。フランス人は手が早いと言っていたのは誰なのか、結局一度も仕掛けて来なかった優しくてオタクでバイで紳士的な純フランス産のイケメンパティシエに 別れを告げて機上の人となった。帰国した菊の元には毎日のようにフランスから メールが届く。ほとんどはアニメや漫画関係の話題で、同じオタクな菊にとっても 楽しいやり取りだった。その他近況としては、店は相変わらず繁盛していなくて 立地も考えて移転しようかと考えている等々。三ヶ月ほどして菊の勤務先近くの 空き店舗に新たな入居者があるようで改装工事が始まった。やけに少女趣味の 外装はどこかで見覚えがあるようなないような。開店初日から人気急上昇で時々 行列も発生するその店は洋菓子の専門店で、味のチェックついでに同じ部署の 女性陣に差し入れでもしようかとカランコロンと鳴るドアを押し開けると聞き覚えの ある声が菊を「ボンジュー!」と出迎えた。無駄にイケメンのパティシエは「とある 日本人に心を盗まれちゃってさあ」と流暢な日本語を操り、彼の心を盗んだ怪盗 たる特別な人物のためにメッセージ入りチョコレートプレートをケーキに飾る。生憎 フランス語の愛の告白は菊には一切読めなかったけれど、その意図するところは 依然として威力ばっちりのウインクがすべてを物語る。 |