気がつくと己が何者かもわからない状態で見知らぬ山深い道に佇んでいた。
それでも記憶喪失という単語はきちんと頭に浮かんだので、どうやら何もかも
忘れてしまったわけではないらしい。所持品は何ひとつなかった。仕方なしに
そのまま山道を歩き出す。通行人に会ったら警察の場所を聞いて、そうすれば
病院を紹介してもらうなり何なり然るべき処置をしてくれるはずだ。道のりは実に
牧歌的で山あいの田舎といった風景が続く。どれほど歩いただろうか、時計が
ないので時間の感覚があやふやながら、ぽつんと一軒の古びた民家があった。
その庭先で白いひげをたくわえた老人が花の手入れをしている。しかも老人の
特徴はそればかりではなかった。動物のような耳と角まである。まるで山羊だ。
咄嗟に体が竦む。この異常な光景を見ても暢気に構えていられるほど呆けて
いなかったのは幸いだ。だが逃げ出すよりも先に老人はこちらに気づいてフォッ
フォッフォッフォッと軽快に笑い、人間の言葉を操ってみせた。見慣れんお人だ、
迷われて来なすったか。確かに道に迷っている。何せ己が進むべき道自体何も
わからないのだから。老人はそんな内心を察してか、あるいは慣れているのか、
こちらが一言も発する前に車の鍵を取ってきて麓の役場まで乗せていってやろう
と言う。最近の山羊人間は運転も出来るらしい。不安と驚愕と戸惑いがぐるぐる
渦巻いてはいたが、自分ひとりでは何も解決しないことだけは理解していたので
悩んだ末に軽トラの助手席に乗せてもらうことにした。車内の時計で五分と少し、
詳しい話は役場で聞くとええと言ったきり老人は庭木の話に終始した。やがて
目的地に到着し、引き返す車に頭を下げた拍子に上からぶらんと顔の前に何か
黒いものがぶら下がる。何だろうと手を伸べてみるとふわふわした毛に覆われた
物体は己の頭に直接繋がっていた。頭の中いっぱいに疑問符が広がる。試しに
ぐいと引っ張ってみればひどく痛んだ。もしやこれは己の頭から生えているもの
なのではないかと思っても、いやいやそんなことあり得ないと常識が制止する。
記憶喪失の身では常識も何もあったものではないが、普通の人間の頭にこんな
ものは生えていないはずだ。けれど親切な山羊人間の例もある。とりあえず鏡、
鏡を見なくてはと建物に入ってすぐトイレを探す。役場の建物はかなりの年代もの
だった。床のタイルはヒビが入っているものもある。そして目当てのトイレで鏡を
覗いて再び驚愕する。頭から生えているものは黒くピンと立ったうさぎの耳だった
のだ。嫌な予感を覚えて臀部に震える手を伸ばした。ほわほわの大きな毛玉に
布越しの指先が触れる。尻尾、ということか。現実を認知した途端、喉の奥から
ひぎゃあああ!と悲鳴が飛び出した。それを聞きつけた役場の人間が何事かと
駆けつける。彼らにもおのおの動物の耳や尻尾やひげや角といった特徴があり、
誰ひとりとして真っ当な姿をした人間はいなかった。どうした?大丈夫か?何か
あったの?と声をかけても応答がないのは声も出せないぐらい驚いているせい
だと気づいた彼らはさては新しい住人かと口々に言っては何やらこういった事態
専用の担当者がいるらしくあとは任せて最初は慣れないだろうけど何とかなる
もんだよとカンラカンラ陽気に笑いながら持ち場に戻っていった。担当者だという
リス人間な女性から説明を受けたのはここの住人はみな現実の世界から記憶
喪失の状態で迷い込んだおそらく元は普通の人間で、この世界に来てこういう
姿になったのではないかという。現実の世界に帰ることが可能なら容姿も記憶も
戻るかもしれないがその方法はいまだ不明で、しょうがないのでそれぞれ仕事や
住居を探して日々の生活を送っているそうだ。そういった理由で役場も存在して
おり、新規の住人の窓口としてさまざまな支援を行っているのだと説明しながら
登録用紙を取り出した。すると不思議なことに今までどうしても思い出せなかった
己の名前がポンと出てきたのだ。菊と名乗ると彼女はお花の菊?と尋ねて菊が
はいと頷くと名前の欄に菊、種族の欄にうさぎと書き、あとは拇印を押して住人
登録は終わる。菊はその日のうちに住まいを紹介してもらい、花屋の店員という
職も得て日々は過ぎゆく。何しろ記憶がないので以前の生活と比べようもなく、
新しい生活も淡々とこなしていくしかない。頭の上に鎮座するうさぎの耳だけは
違和感を覚えずにはいられなかったが、耳に水を入れないで上手に髪を洗う技も
身につけた。ひと月経って気づいたのはご近所や職場近く、すれ違う人々全員が
羊であったり牛であったり馬であったりで村に肉屋も魚屋もないこと、町の外れに
一本の舗装されていない道があることだ。菊はその先に何があるのかずっと気に
なっていた。ある日の仕事帰り、我慢していた好奇心が突然抑えきれなくなって
明かりもない砂利道を歩きだす。当座の生活費にと役場から借りたお金で買った
時計でぴったり三十分、行けども行けども道の終わりが見えない。生憎と夜目は
あまり利かない。しまった、せめて昼間にすればよかった、失敗した、そう思った
瞬間だった。
「アレ?どうしてこんなところにうさぎがいるんだい?」
 突然暗闇の向こうから若い青年の声が聞こえた。菊からは何も見えない、ただ
足音は少しずつ近くなっている。
「だめだよ、君みたいなうさぎがこっちの村に来たら…」
 やはり向こうにも村があったのか。何もないのに道があっても無意味だ。何か
あるだろうと思っていた。ではどうして誰も別の村について教えてくれなかったの
だろう。どうして彼は菊に来てはならないと言うのか。ぼんやりした人影が見えて
きたときにはすでに遅かった。鼻を刺激する血の臭い。あの村では一度も嗅いだ
ことがないもの。
「…食べられちゃうよ?」
 金色の垂れた犬の耳とふさふさした尻尾を持った青い目の青年が鋭利に尖る
犬歯を見せつけるように笑った。菊は村がふたつある理由をようやく悟る。慌てて
逃げ出そうとしたが、山羊の老人のときとは違った理由でそれは叶わなかった。
青年の素早い動きによって捕えられてしまったのだ。力強く抱き留められたまま
温かく湿る舌でべろりと頬を舐め上げられると全身がきゅうっと竦んで、怖気が
背筋から首を通って頭の後ろまで走って、ガタガタと震えも止まらない。青年は
菊の反応を気にもしないで柔らかい耳を引っ張るようにして食んだ。犬歯の食い
込みが痛くて涙が滲む。
「君カワイイね。ねえ、ホントに食べちゃってもいい?」
 それはちょっと困りますと返事するのも待たないで青年は早速菊のくちびるを
味見した。捕食的な意味でなくてもそれはそれで困る。なのに妙に気に入られて
しまったらしい菊は好奇心はうさぎでも殺すんでしたっけとべろべろとはむはむの
ダブルの攻撃を受けつつぎゅうぎゅうと絞め殺すように抱きつかれてため息を吐く
しかなかった。





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