|
先祖伝来の田畑を放り出し、海を跨いで大陸のはるか向こうで暮らす本田家の 長男がお盆の墓参りをしなくなって久しい。距離が距離だけにそう頻繁に帰って これるわけでもない。どうせご先祖様も子孫の幸せを邪魔したいと思っていない だろうから親戚一同、夏の長いバカンスを返上する代わり、稲刈りの時期に短い 休暇を取って来日し、機械が入っていけない棚田の稲を二人仲良く腰を痛めて 刈り取って、炊きたての新米と大人数での餅つきを楽しんだあとは二泊三日の ささやかな温泉旅行なんかを満喫して帰っていく長男とその伴侶を咎め立てする 者は特にいなかった。伴侶といっても男同士なのでどちらが嫁かなどと下世話な 憶測をする輩もいないこともないが当の二人を並べて見れば大体のことは明白 だった。要するに北欧は美人の産地と聞いて羨んでも所詮は男、ガタイもいいと きてる。金髪碧眼の美形の伴侶といえど嫁にもらわれたのは同じ日本人と比較 しても小柄で慎ましやかで家事を得意とする本田家の長男のほうだったという わけだ。そんな二人が珍しくお盆の時期に来日することになった。何しろ数年間 本田の本家に居候して日本の風習にも慣れ親しんだ優しい旦那様だ。盆暮れ 正月は離れ離れになった家族が集まる貴重なイベントということも承知している ので、気を遣わないでいいという奥方をそういえばご先祖様が帰っている仏壇に 生涯の伴侶をまだ紹介していなかったということもあって何とか押し切った。実の ところ旦那様は日本の夏を大層お気に召していて、たまには夏にバカンスして みたかった、ということは心に秘めておく。そんなわけでベールヴァルドと菊は 真夏の日本のド田舎にいた。 天に向かってまっすぐ伸びる稲は青々と生命力に溢れている。風に煽られて 一斉にそよぐ様子はまさに緑の海だ。実りの季節を迎えた黄金の海とは違った 魅力がある。空も心なしか青味が強く見えた。純白の雲とのコントラストもまた 美しい。畑の隅に咲く濃い黄色の向日葵や赤紫の立ち葵といい、日本の夏は 他より自己主張の強いイメージがある。それがベールヴァルドは嫌いではない。 ギラギラ天火のごとく太陽が照りつける前に起き出して近所の小学生のラジオ 体操に混ぜてもらいながら小一時間早朝の散歩を楽しむ一方、菊はというとまだ 時差ボケが治らないだとかで布団の中にいる。生まれ育った故郷に帰ってきた のに環境に慣れないとはおかしな話だ。それだけスウェーデンに慣れてくれた 証と思えば無理に起こそうと思わないところが優しい旦那様と称される所以の ひとつだ。散歩から帰る頃にはそろそろ起きたかと思えば今や一児の母である 妹君にやいのやいのと騒ぎ立てられてもタオルケットをしっかと抱いてうーだの あーだの反射的に返事するだけで起きる気配は見えない。仕方なく役割交代 して耳元で「米、味噌汁、糠漬け、生卵、納豆、塩鮭」と魔法の呪文を唱えて やればすぐに違った反応があるだろう。しかしそれではつまらない。せっかくの バカンスなのだから少しぐらい遊びに走っていいはずだ。久しぶりの実家で気が 緩んでいるのか、普段はなかなか見せてくれない無防備な姿をじっと眺めたり つついたり存分に堪能してから邪魔なタオルケットを剥がして空いたスペースに 大きな体躯を強引に割り込ませる。この状態で二度寝を洒落こむと目を覚ました 菊の反応がとても面白いのだ。真夏の熱線と密着した体温にだんだん寝苦しく なってきてふと薄く目を開けるとそこにはド近眼のベールヴァルドが無闇に凄む 必要もない近距離、それどころか互いを抱きかかえて眠っている始末。向こうの 家ならまだしもここは実家だ。両親もいて妹夫婦もいる。こんないかにもな光景を 身内に見られるのは中学の卒業アルバムを音読されるようなものだ、早く、誰も 見てないうちに離れなければと焦る。だがベールヴァルドの太い腕はプロレス技 でもかけているかのようにがっちり菊を抱えて離さない。足掻くうちに妹君が再度 起こしに来て呆れ顔で去っていった。仲睦まじくておよろしいことなんて意味深な 笑みを残して。菊には弁解の余地もなかった。仲なんか全然よくないですよ!と 否定しようものならそれはたちまち嘘になってしまうからだ。寝たふりをしながら 見る青ざめたり赤らんだり困ったり怒ったり笑ったりころころと表情を変える菊は 楽しい。それと同時に菊からすれば無表情無愛想強面と周囲に散々恐れられる ベールヴァルドにも表情の変化がある。こうして好きなようにさせているときなど 本当に嬉しそうで咎めることが出来ない。だから朝食での気まずい空気もひとり 素知らぬ顔でひたすら我慢するし、本家の宴席で言いふらされて「ないだ、やや こさえったっけのが!」と泥酔してすっかり赤ら顔になった伯父に背中をバシバシ 叩かれて頑張れな!マムシ要っかマムシ!と応援されているベールヴァルドが 何か企んでいるとうっすら勘づいても予防線は張れなかったのだ。 今まで空腹に急かされてのそのそ這い出して朝食を終えると家族用の畑から 二人で茄子や胡瓜やトマトを収穫したら甲子園の中継を見たり、雨で中断すれば 川釣りや市民プールや買い物なんかに出かけているうちに夕方になるので庭の 花木のひとつひとつをよく観察しながら水やりを済ませて、スウェーデンで覚えた 料理を振る舞ったり、逆にスウェーデンでは手に入らない材料で庶民的な和食や 地元料理をベールヴァルドに披露したり、その後本家で飲み会や花火を楽しむ のが恒例で、ビアガーデンに行ったり近所の居酒屋でプチ同窓会をしてみたりも ありつつ概ねこんな風にだらだら過ごしていたバカンスで初めてベールヴァルドが 夜中ドライブに行きたいと言い出した。ふと思い出したのはちょうどお盆の時期に 最盛期を迎える流星群のことだ。それが見たいのだろうかと菊は快く承知して、 元は自分の物であった軽ワゴンを借りてドライブに出かける。天井の高い設計 だったのは幸いだった。星が見やすいように少ないながらも町の明かりに背を 向けて車を走らせると終着点は自然と車通りのない場所になった。やがて天体 観測に最適な丘を見つけてビニールシートや軽食や飲み物を車から下ろそうと した背後にベールヴァルドが圧し掛かる。新婚初期なら手伝ってくれるのかな、 たまには甘えたいのかなぐらいに思ったそれが今ではそうではないとわかって しまう。これは合図だ。つまり「ややこ作っべ、今、ここで」の意である。はあああ と菊は深々とため息をつく。ベールヴァルドは菊にとって理想的な伴侶だった。 堅実で優しく愛情表現も過剰でない。ただ、一度スイッチが入ると大変なのだ。 内容もごく普通、回数も一度か二度、無理強いはしない、手荒な真似もしない、 何か変なプレイもしない、本来そういう目的に作られていない男の体を充分に 気遣ってくれる。が、長い。長すぎる。終わりを思うと気が遠くなるほどの時間が かかる。今十二時過ぎだからこれから始めたらたぶん二時、下手するとそれより 遅くなるかなと暗澹たる思いで長身を折り曲げて首筋に顔を埋めてきた金髪を 子供のように撫でる。それでもはっきり拒絶しないのは菊の負担を考慮して月に 数回しか求めてこない優しさが愛しかったからだ。年嵩の菊と違ってまだ枯れる には早い年だ、多少なりとも辛抱を強いているような気がする。ほだされるという 言葉の意味を身をもって実感しながらしょうがないですねえとそのまま反転して 背中を荷台に預けた。どちらも甚平とラフな服装なので簡単に素肌を晒しながら なんとなくいつもより余裕のないベールヴァルドが気になって汗ばんだ肌に舌を 這わせる顔を少しだけ押し退けて頬に手のひらを滑らせる。菊?と星明りの下、 青い瞳が見慣れない上目遣いで顔色を窺ってきた。こんなとき思うのはいくら 大人と子供ほど体格差があっても、いくら元が引っ込み思案で何を決めるにも すぐ二の足を踏んでしまいがちな菊の背中を押して強くリードしてくれる頼もしい 伴侶であってもベールヴァルドは十も年下だということだ。胸の奥に小さな棘が 刺さってチクチク痛むのを上手に隠す術がまだまだ未熟だった。今年の春から 保育園に通い出した甥っ子を可愛がる菊をベールヴァルドがどこか距離を置いて 見ていることにも気づいていた。最初の告白を"孫の顔を見せなきゃいけない"と もっともらしい台詞で断ったのがいまだ響いているのかもしれない。同性を伴侶に 選ぶということはそういうことだ。確かにベールヴァルドの子供を見たいなと思う ことはある。たとえその子の母親が見知らぬ女性でも我が子として愛せる自信も あった。だがベールヴァルドの性格からしてそれを良しとしないはずだ。もし冗談 でもそんなこと口にすれば一気に機嫌が急降下するのが目に見えている。なら どうして逆もまた然りだと気づいてくれないのだろうか。やはり若いなあと思う。 ベールヴァルドがどう頑張ったって出来ないものは出来ない。けれども肌と肌の 触れ合いは目に見えないものを生み出す、それでもう充分ではないか。眼鏡を 潰さないよう気をつけながらちょっと角ばった頭を予告なしにぎゅっと抱き込んで みる。お?とか、あ?とか、惑いの声が漏れて菊はくすくす笑う。「ねえベーさん、 賑やかな家族もいいですけど、二人きりもいいものですね」あたりは無人、丈の 短い草に覆われた丘、聞こえるのは虫の声と二人分の吐息と鼓動。流星群が どんな願いでも叶えてくれるとしても"ややこがほしい"より先に願うことがある。 ベールヴァルドは菊の問いかけの意図を理解して「…そっだな」と痩躯をきつく 抱き締め返した。かくしてベールヴァルドの苦悩と焦燥は見事に払拭されたが、 スイッチは入ってしまっているのでこの夜の夫婦の営みは通常よりハッスルして しまったベールヴァルドのおかげで菊の危惧通り流星群などそっちのけで車の サスペンションをギッシギシ軋ませて早朝三時過ぎまで続いたのだった。仮眠を 挟んで夜も明けた時刻に這う這うの体でそっと帰宅するとニヤニヤ笑う家族が 二人を出迎える。それは完全に無視していいとして何だってベールヴァルドは あんなにツヤツヤしているのか。若いっていいなあと菊は三度年の差を意識して 今回のバカンスを総括する。 |