正直俺は兄や弟と血が繋がってないのではと思うことがある。去年兄は近県
でもトップレベルの進学校に塾通いするわけでも家庭教師を雇うわけでもなしに
自力であっさりと首席合格してしまった。弟も弟で来年に迫った同じ進学校の
受験に対して何も対策もしないまま余裕の表情だ。周囲も弟なら間違いないと
信じて疑わない。そして肝心の俺は進学校どころか近所のヤンキーの巣窟たる
バカ高校も受かるかどうか微妙なライン。自分の名前さえ書ければ合格という
入試が本当に存在するならいいが、現実がそれほど甘いとは思えない。今から
必死こいて勉強しようにも俺みたいなバカを受け入れてくれる塾などありそうにも
ないし、家庭教師は俺の天才ぶりにさじを投げて次々と辞めていく始末だ。もう
どうにでもな〜れ☆な気分で悲嘆に暮れる日々を送るなか、ある日弟が最後の
賭けとして携帯用ゲームソフトをくれた。それが俺と菊との出会いだった。

 それはとあるゲームメーカーが発売を予定している試作品で、正式な名前は
まだないがプレイヤーの学力向上のためのソフトらしい。黒髪に黒い目、貧乳
美乳巨乳どころかおっぱいのおの字もない、萌えとは程遠い地味で無愛想で
性格も悪い二次元の野郎キャラが上下二画面に渡って表示され、鋭い視線で
渋々机に向かう俺を監視した結果『そこ!また間違えましたね』きつい口調の
人口音声が不正解を目敏く見つけて指摘する。『だーかーら!何度も言ってる
じゃないですか、そこは維管束ですってば!』こっちも何度聞いたかわからない
説教に俺のイライラはすぐ沸点を迎えた。「あああうっせえええ!わーってるよ!
はいはいイカンソク!イカンソクな!わーってるって!だけどよ、そもそもなんで
人間であるこの俺様が植物の構造なんか覚えなきゃなんねーんだよ!」重い
机を持ち上げて引っくり返しかねない勢いにも人口音声は『それが入試の予想
問題だからです』と至って冷静に応えた。八つ当たりするのも空しくなった俺が
ため息をついて「俺、こんなんで受かんだろうか…」と不安を零すと『あなたなら
きっと大丈夫だと私は信じております』と少しだけ柔らかく綻んだ表情が画面に
映る。俺はしばしの沈黙の末に「なあ菊、せめてお前におっぱいがあったら俺も
少しはやる気が出たんだけどなあ…」と項垂れた。あとから聞いたことだがこの
ソフトは女性向けだったらしい。最初は気に食わなかった菊だけどゲームの中の
人物とはいえ付き合ってみればなかなかいいやつだ。俺が何度も同じ間違いを
繰り返して癇癪を起こしても変に慰めたりしないし、こうして弱音を吐いても優しく
励まして応援してくれる。何より俺を見捨てたりしない。もしもこのゲームが無事
発売されて同じように難度の高い受験を控えた女の子の手に渡ったら菊はさぞ
人気のキャラになるだろう。と思えば『私も出来れば貧乳でも美乳でも巨乳でも、
とりあえずおっぱいのある女性にお教えしたかったんですけどねえ、でも、あなた
ぐらいのバカとなればやり甲斐もありますし、お互いそこは我慢してうまくやって
いきましょうよ。とにかく次の問題に取り掛かって下さいな』と淡々とした口振りで
不純な本心を漏らす。前言撤回、こんなやつが人気のキャラになってたまるか。
二次元のくせしておっぱいがある三次元が好きで、ややサディスト。これが菊の
本性だ。あまりにも人間臭くてとても架空の人物とは思えなかった。だからこそ
俺は菊のことが嫌いではなかった。菊が言うように信じて頑張ればあの学校に
だってもしかしたら行けるかも知れない。そんなささやかな希望が俺をまた菊の
説教付の机に向かわせた。

 受験まであと二ヶ月を切った。当初は絶望的だった模試の結果が徐々に合格
ラインに近づいていく奇跡を俺たちは確かに見た。『お兄さんと同じ学校に進む
のも最早夢ではありませんね』そして菊は優しい微笑みと人口音声で嬉しそうに
俺に語りかける。「…夢じゃねーんだな」俺は呆然と用紙を手にしてつぶやいた。
『夢なんかじゃありませんよ』菊の柔らかい声は危うく俺を嬉し泣きさせるところ
だったが、そこは懸命に堪えて「ま、俺様の実力なら当然ってこった!」と涙目で
強がっておいた。二人でひとしきり笑い終わったあと、菊はやけに神妙な顔して
『ところであの、ギルベルトさん。実は、私からお願いがあるのですが』と言った。
「なんだよ遠慮すんな、俺は今最高に機嫌がいいから何だって聞いてやる。あ、
でもプレイヤー交代っていうのはナシな」俺はそう応じた。今更菊が俺じゃない
誰かの元で誰かの勉強を教えたり誰かを応援するのは嫌だったからだ。『いえ、
そうではないんです。どうかくれぐれもこのゲーム機の電池を外してしまわない
よう注意して欲しいのです』お願いという割には妙な言い草だ。珍しく不安げな
まなざしが画面越しに俺を見上げている。『私という存在はあくまでもあなたの
性格や適性などに対応して成長した擬似人格なのです。それが初期化されて
しまえばもう…』菊の並べた難しい言葉に俺は顔いっぱいにハテナのマークを
浮かべていた。すると菊は言い直す。『つまり一度でも電池を抜かれるとですね、
今の私は消えてなくなってしまうんです。私はあなたが志望校に合格するところ
まで見守りたい。だからどうか私が気に食わなくても電池を抜かないで下さい、
お願いします』画面の中で菊が頭を下げる。こんなにも低姿勢な菊を俺は見た
ことがない。急に不安になって慌てて「大丈夫!大丈夫だって!絶対抜かねえ
から!な!心配すんなって!」そのあと俺は家に帰るなり電池を守るカバーに
何重にもガムテープを貼って補強した。これでもし俺の身に何かあっても誰かが
充電してくれれば菊はゲームの中で生き続けられるはずだ。それを知って菊は
やはりこれまで一度も見たことがない涙顔で礼を言った。二次元の世界の住人
である菊、現実の世界の住人である俺。それでもこの半年間、俺たちは間違い
なく教師と生徒であり、パートナーであり、親友だった。俺はこの日以降、菊の
入ったゲーム機を殊更丁重に扱うようになった。

 やがて入試本番、今まで二人で必死に勉強してきた成果を余すところなく発揮
して、元からデキがいい兄には及ばないが自己採点でもまずまずといった感触で
終えた。菊は本当に喜んでこのまま画面から飛び出してくるんじゃないかと思う
ほどの受かれ調子で『もうとにかく思いっきり抱きしめて頭も背中も手加減なしに
バシバシ叩いて見知らぬ人にも自慢しまくってあなたを胴上げしてあげたい気分
です!』と興奮気味に語る。そんなこんなで夜遅くまで喜びを分かち合い、話は
尽きなかった。けど時間が経つにつれて書き間違いをしてないかと些細なミスが
気になって仕方なくなる。そんな俺に菊はいつもの調子で『大丈夫、あなたなら
きっと大丈夫ですから』と不安を打ち消してくれるのだ。もしも菊に現実の世界に
伸ばせる手があったら、温かなそれがゆっくりと俺の背を撫でて、数ある不安の
ひとつひとつが消えていくまでそうしてくれていただろう。あるいは俺に見えない
だけで菊は実際そうしてくれていたのかもしれない。背中にほわんと不思議な
温かさを感じた。普段の強気を取り戻した俺は「ま、俺様が凡ミスやらかすわけ
ねーけどな!」と高らかに笑って『そうですともそうですとも』と菊も笑顔で頷いた。
このとき俺はもう自覚していたのかもしれない。俺にとって菊が、単なる教師や
パートナーや親友などという存在ではないことに。

 それからいよいよ合格発表の日を迎えて、俺は合格者の受験番号を貼り出す
掲示板の前までゲーム機を持ってきていた。俺の番号が間違いなく書いてある
ところを菊の目であるカメラに映し出したかったのだ。原因はわからないが最近
菊はどうも口数が少なく、元気がないようだった。でもこれを見ればきっとウザイ
ぐらい喜んでくれるはずだ。並ぶ数字を上から順にひとつずつ確かめる。画面の
菊は手を合わせて一生懸命拝んでいる。二次元の住民が祈る神は誰なのか、
少し可笑しいような気持ちを抑えて数字を次の数字を見たその瞬間、「…あ」と
俺の声に菊は顔を上げた。「…あった」ぽつりと零すと菊は『やった!やったじゃ
ないですか!ギルベルトさん!よく頑張りましたね!あなたはひどいバカでした
けど、今でも結構バカですけど、ほんとに…やりましたね!』と何気に暴言を織り
混ぜながらも興奮した様子で何度も何度も俺を褒める。菊がそんな状態なので
恥ずかしながら俺もなんだか涙が出てきて、暴言にもうんうんと頷きながら「全部
お前のおかげ!お前のおかげだから!」と手のひらサイズの小さなゲーム機を
抱きしめてバカみたいにはしゃいで帰途に着いた。途端どっと疲れが押し寄せて
なんとなく習慣で机に向かったとき、菊はまた変に落ちついた声で俺を呼んだ。
『そろそろお別れです、ギルベルトさん』さっきまでとまったく変わらず嬉しそうな
顔をしてるのに、同じ分だけ悲しい表情をしていた。『充電池の限界が来たよう
なのです。新しい電池を入れても今の私ではなくなります。これでお別れです』
次第に色を失っていく画面の中で菊は笑っていた。『私のプレイヤーがあなたで
本当によかった。私は幸せ者です』途切れて雑音の入る人口音声に俺は無我
夢中でゲーム機を振り回した。電池切れのリモコンにやるようにめちゃくちゃに
やった。だけどちっともよくならない。悪くなる一方だ。「ふざけんな!これから
俺はどうすりゃいいんだ!お前がいないでどうやって勉強しろってんだ!お前が
いなきゃ俺は、俺は」言葉にならない声が重い空気に飲まれていく。『…最後に、
もうひとつだけお願いがあります。このゲーム機をソフトごとメーカーに送り返して
下さいませんか。試作品のテストをしていただいたお礼もありますので…』すでに
菊のものではない機械的な音声がそれを告げて、二度とこのゲームが生意気な
口を利くことはなくなった。俺は謝礼など要らなかったが菊の望みどおりにして
やろうとゲーム機本体とソフトを丁寧に梱包して製造メーカーに送ってやった。

 季節は春真っ盛り。菊にも見せたかった真新しい高校の制服を身に通して家に
帰る。授業はやはりハイレベルで、自分なりに予習復習に励んでギリギリついて
いっている毎日だ。菊がいればという思いは今でも消えない。宿題でもすっかと
早速机に向かおうとするとピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。生憎兄も弟も
出払っていたので仕方なく玄関に出る。と、ドア越しになんだか聞き覚えのある
声がした。「テストプレイしていただいた試作ゲームの謝礼のお届けです」俺は
内鍵を開けるのももどかしく乱暴にドアを開ける。そこに立っていたのは黒い髪、
黒い目、地味な服装でおっぱいもない、俺のよく知った菊だった。あの人工的な
ものじゃない、自然な声が「驚きましたか?」と悪戯っぽく笑う。夢ではないかと
疑って、自身の頬ではなく菊の頬をつねると「痛いじゃないですか!ったくもう!
バカじゃないですか!」と相変わらずの暴言ぶりだ。ひとまず夢ではないようだ。
それにしてもつねったときの肌の感触も人間そのものじゃないか。「オ○エント
工業もびっくりの技術でしょう?体も髪も人間と同じたんぱく質を使った新素材で
出来てまして…」と菊は言いかけて一旦止め、「バカなあなたにもわかりやすく
言うとですね、私、人間に限りなく近いアンドロイドなんです。あなたと過ごした
日々もあのソフトからちゃんとデータを吸い出してありますから、あなたの知って
いる私そのものですよ」俺はなんだそのミラクルと呆気に取られながら、晴れて
三次元の世界の住人となった菊を見つめる。地味だけどそこそこ整った容貌で
満面の笑みを見せた菊はなんというか、あの、その。いやしかし、次元の壁すら
超えて俺の元に帰ってきた菊だ。この期に及んで性別なんていうのはたいした
問題じゃないはずだ。「で、謝礼っていうのは?」ほとんど確信を抱いてるのに
わざとらしく尋ねると「私、ということになります。あなたが必要としてくれたらの
話になりますけど」と俺を試すように言うのだ。さすがややサディスト。どうしても
俺に言わせようって魂胆なんだろ。しょうがない、どうしたって惚れた俺のほうが
負けなんだ。「ああもう!わーった!わーったよ!俺にはお前が必要だ!」さらに
やけくそ気味に「お前が好きだ!」と叫んで両腕を広げると菊は弾かれたように
がばっと俺に抱きついてきた。ほんとはずっとこうしたかったんだろう?俺様には
全部お見通しなんだよ。不本意なのは身長だ。俺とほぼ並ぶじゃねーか。畜生、
ナメやがって!とはいえこっちはまだ成長期の生身の男だ。三年後には姫抱っこ
だって似合うようなイイ男になってやる。俺の新たな野望を語ると菊はそんなこと
どうでもいいとばかりに「はいはい、じゃあ今日の宿題でも一緒にやりましょうね。
どうせあなたひとりで苦戦していたんでしょう?」と小道具の眼鏡と教鞭を片手に
急かす。再会の感動も台無しにする態度にちょっとムカッときたので「その前に
俺にやる気を与えるのが先だろ」と顎の下と頭の横に手を差し込んで固定して
「ちょ、待っ、んんッ」と抵抗も丸ごと飲み込むように深くキスをしてやった。たとえ
おっぱいの大きな学校一の美少女がギルベルトさんって超カッコイイ!大好き!
お願いだから付き合って!って告白してきたって断っちゃうぐらい俺にはお前しか
いないってことを充分にわからせてやる。最後のほうには舌を絡ませてきた菊が
同じ気持ちだということはよくわかった。それでもあえて納得してない顔を作って
「残念ですがあなたは私の趣味では…私は貧乳の女の子が好きなんです!」と
耳まで真っ赤にして言い張る。菊の特徴にひとつ付け加えておこう。菊は少し、
素直じゃない。





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