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※死にネタ・微グロ・バッドエンド注意 元から本が好きで集めてはいたが、足の踏み場もなくなるほど家を埋め尽くす ようになったのは菊が死んでからのことだ。そのときのことをアーサーはまだつい さっきのことのように思い出せる。道路の向こう、噴水のある公園、駆け出す菊、 待ち合わせに遅れた相手に機嫌を損ねることもなく笑顔で手を振る、誘われる ように足を踏み出した瞬間に気づいた右から迫る馬車、スローモーション、衝撃、 死に至るほどではない痛み、むしろ怪我ひとつない、途切れた記憶、気がつくと 尻餅をついていた、立ち上がるとすでに人だかりが、嘘だ、そんなことがまさか、 顔を覆う婦人、医師を呼びに走る若い男、その中心には。そうしてぼんやりして いるあいだに何もかもが終わり、彼の祖国のやり方に乗っ取って荼毘に付される 寸前、急いで連れ出した恋人は最早どんなに呼びかけても応答のない空っぽの 入れ物だった。今にも眠りから覚めそうなのに魂が存在しない、それが不思議で すらある。それならとアーサーはすぐに死者の魂を呼び戻す方法を探し始めた。 冬のあいだ眠りについた種に温い水を与えて春の芽吹きを待つように、それは アーサーにとってはごく自然な流れだった。何かが間違っているとしたらそもそも 菊が死んだこと自体おかしい。運命の輪の間違いはなんとしても己の手で修正 しなければならなかった。古代エジプトの死者の復活から最新の医学に至るまで ありとあらゆる書物を紐解き、手がかりを見つけようとアーサーは躍起になった。 屋敷からは先祖伝来の骨董品がひとつずつ消え、空いた空間は本で埋められて いく。復活の日を待ち、 甘い香りの透明な防腐剤の水面に漂う菊は好きだった 風呂に浸かっているかのようだ。バスタブから水滴の音が聞こえると菊が蘇った と思い、平らな胸が呼吸のために上下していないか期待を込めて確かめずには いられなかった。しかしそれらは大抵聞き違いか雨漏りで終わる。いまだ方法が 見つからないのだ、仕方ないと諦めもついた。元々食べ物には頓着しない性質で あったので水とパンと希望さえあれば生きるのに不自由しなかった。アーサーの 全身はげっそりと痩せてあばらが浮くほどになったが何ひとつ気にならなかった。 何年も何年も時間をかけてやっとそれらしきものを見つけた。死者の魂を呼ぶと いう香を炊いた途端にアーサーの意識はすっと遠ざかり、ふと目覚めたときには ゆるい坂道を下へ下へとくだっている。どこまで行っても真っ暗で、上にも下にも 明かりはない。だがとにかく下に行けばいいのだと奇妙な確信があった。時間の 感覚が曖昧で果たしてどれだけ過ぎたのかやがて坂の終わりを迎え、何もない だだっ広い暗闇の中で菊の名を何度も繰り返し呼んで懸命に探し回る。指先の 感覚だけが頼りであってもアーサーがその肌の感触を間違えることはなかった。 探り当てた腕を有無を言わさず引き掴み、今度は上を目指した。二度と聞けない ものと思っていた愛しい声がアーサーを引き止める。でも振り向くことはしない。 オルフェウスの二の舞などごめんだ。菊の制止にも決して耳を貸さずひたすら 坂を上へ上へ。すぐ後ろから聞こえる裸足の足音、息遣い、それらがだんだん 確かなものとなっていく。ほどなく明るい光がアーサーの目を射た。闇に慣れた 目を刺すような強い光だ。ああ、成功したアーサーは歓喜した。たとえ神に背く 行為だろうと構うものか、我々の仲を裂く者は神でも許さない。今や生者と何ら 違いのない、見えずとも背中でその存在を感じる。早く早く目が慣れるといい、 慣れたら今こそ、今こそ。もしもとうに朽ち果てて膿を垂れ流し、蛆の湧く無残な 姿になっていても変わらない愛で抱きしめよう。 「…菊」 名前を呼ぶと菊はゆっくり顔を上げた。アーサーの覚悟に反して菊は醜く腐敗 していなかった。生前と少しも変わらない姿で、反対に変わり果てたアーサーの 痩せこけた頬と衰えた体をなぞってさめざめと泣いた。それが喜びの涙ではない と知ったところでもう遅い。再会して菊が得たものは深い悲しみだった。菊が命を 賭しても守りたかったのは。 『私は…あなたの幸せを守りたかったのに』 次に気がついたときアーサーは浴槽のタイルの上に寝転がっていた。勢いよく 身を起こしてバスタブの中身を見る。菊の抜け殻は強い酸に浸された肉のように 見る見るうちに輪郭を失い、骨ばかりになっていった。反魂の法など元より存在 しないのか、あるいは神罰か。どちらにせよアーサーには絶望だけが残された。 行き着く先が天国だろうと地獄だろうと共にあることが己の幸せだということに、 菊は死してなお気づいてくれなかったのだ。 |